sixtyseventh.diary

とりとめはない

2021-10-12 あなたの町にもどこかにある富士山

昨日ビールを飲んだのもあるのか朝さっさと起きられず。子供らの送りを夫に託す。

なんだか疲れている原因はもしかすると昨日の仕事にあるかもしれない。小規模なワークショップをひらいたのだ。あれでも気を遣って運営しているので、なんだかんだ疲れたのだろうか。初めてのものの割にうまくいったし、参加した人がお世辞でも楽しいと言ってくれて非常に嬉しい。広報という仕事はなんであれ、社内に味方がたくさんいないと辛い立場だし、どうしたら信頼してもらえるだろうと、これでも腐心しているのである。信頼してもらうためには、まず、信頼することなのだ。

信頼、そんな言葉をふと風呂に入りながら考えていた。今いるチーム、というか会社は、まだまだ信頼ドリブンなところもあり、そして、その文化は意識して維持していったほうがいいのではないかと考えていた。信頼されるか、ということもあろうが、さらに、「私は、私達は、相手を信頼出来ているか」という問いをもしかしたら常に持ち続けていた方が、より今のチームらしいのではないか、と。信頼されることだけでなく、信頼することにも敏感な方が、健全なのではないか。

中学生の時に、確か、信頼ゲームというような名のレクリエーションを宗教教育の一環でやったように思う*1。これまたうろ覚えだが、Aは目をつぶり、Bの方向へ思い切り体を預けるように倒れる、といようなレクリエーションだったように思う。一度やったら役割を交代したかもしれない。

これは、身を預けられるのは大して問題でないが、身を預けるのは随分難しい(倒れるのはこわい)という気付きを得るためのレクリエーションだったのだと記憶している。さらに信仰の難しさを説いたものだったかもしれない。要は、人を、何かを、信頼することは難しいのだ。その難しい信頼を勝ち取る、ということまで考える前に、そもそも私は、私達は信頼しているのか? ということに敏感であったほうが誠実なのではないか。

それから、信用と信頼も少し違う。信用は、企業にとって当然なくてはならないもので(反社会的なそれだとしても、企業としての立て付けを一定程度取るのならば外見上の信用は整えるだろう)、全方向への信頼はなくてもなんとかなる。一部に信頼されていたり、あるいは信頼されなくても、信用だけあればなんとかなったりするのではないか。成長するか、とは全く別の話。

その、ふと思った、信頼する、という言葉をもう少しチームでの合意を取れた形でブラッシュアップできないかなとぼんやり湯船で考えていた。子供が変な時間に眠ったのから覚めるのを待ちながら。彼を湯船に浸からせたくて風呂を焚いたのに結局彼は起きてこず、がっかりしている。娘は喜んだからまあ、よいが。

今日は気になっていた地元企業にノベルティ発注をし、ぼちぼちよくやった気がする。いや、先週からよくやってるのだ、ずっと。明日もぼちぼちやっていきたい、無理せず。

 

若干クセが強いが面白く読んだ。言語学者のエッセイ集で、設計意図としてしょうがないとはいえ章の順番と内容参照が前後しているような気がしたのがいささか気になった。が、面白かった。

安定のO'Reilly.何を隠そう、これを読んでいたから信頼がどうのとか考えだしたのだが。意図せず権限を不要に制限したり、納期ありきのプロジェクト思考になっていたりしないかは常に点検した方がワークを楽しめそうだ。

*1:プロテスタントのミッション校だった