あれやこれやと話題にされた展示だが、始まるのがいつかも誰も承知せずに燃やすだけ燃やして、本当に虚しくなりつつも私は密かに楽しみにしていた『大吉原展』。福田美蘭さんの作品がキービジュアルとして使用されなくなってしまったのが残念だが、会場できちんと見ることが出来た。この作品が『大吉原展』のコンセプトをわかりやすく「コミュニケーションデザイン」されているかというと、そこには議論の余地があるだろうが、とはいえ現代作家が『大吉原展』を表現するにあたって非難されるほどのものなのか、自分にはいまいちしっくり来ていない。
『大吉原展』のコンセプトとは何なのか、ということ自体に話を持っていくと今日見た展示の話から逸れるので、とりあえず今日は扱わないし、書くにしても相当な分量で丁寧に「自分の認識していること」と「自分が解釈していること」等など書く必要があろうから(真面目に書いたらできの悪い論文になるかもしれない)、多分やらない。このブログ記事だけ読んで「こいつは性加害に消極的に加担している」と言われることがあれば、それは違うと言いたいし、今日『大吉原展』で私が考えていたのは、根本的に児童労働を強いられ性産業に(ほとんど)自分の意志なく従事させられ外出の自由もない「花魁」あるいは遊女(切見世なんてずいぶん最悪だ)たちが、あるいはそれらの行きていた空間が、一面では美とされたのか、現代で言うならば被写体であり続けたのか、というか、被写体として選ばれたのか。その生活や生い立ちを作家や版元が知らないわけはないところで、プロデュースした。それが「売れる」からなのだが、どうして「売れる」もの、価値のあるものだと思ったのか、そんなことをつらつら考えていたのである。ちなみに現時点で結論はない。
さて、まず肝を抜かれたのは歌川広重の『東都名所新吉原五丁町弥生花盛全図』である。作品は江戸博のデジタルアーカイブスを参照してほしい(Famous Places of the Eastern Capital : General View of Shin-Yoshiwara Gochomachi in March with Cherry Blossoms in Full Bloom | EDO-TOKYO MUSEIUM Digital Archives)。画面に引かれた線のような、これを「すやり霞」と呼ぶそうだが、こういった表現の錦絵は初めて見たので感動してしまった。錦絵で、珍しくない表現なんだろうか? あまりに感動したので雑なメモを残している。 銀座線の車内中吊りに吊られていても、古いと思わないだろうな。もし、よくある表現だったとしたら感動しすぎなのかもしれないが、とにかく素晴らしい。
地下2階の展示に猥雑な雰囲気などはもちろんなく、極めて一般的な企画展といった様相だった。何より、蔦屋重三郎のおかげで、前半からかなりの数の資料に圧倒される。
他方で、もう一つのフロアの展示(第三部)については、これもまた賛否両論あろう(というよりは否定的な意見を見かけることが多かった)。確かに、あたかも花街遊郭のような演出となっており、スタッフの皆さんは法被を着ている。果たして、彼ら彼女らに「遊郭の呼び込みのような見た目をとらせる」ことがよいことか、そうしないといけない展示なのかというと、趣味がよくないと言われても仕方のない部分があるだろう。そうしないと、吉原の文化について鑑賞する目的は果たされないか? 企画展全体の趣旨から言うと、これを肯定することは難しいと感じる。
やはり豊富な資料のおかげで私は結局楽しんで過ごした。大店の店主(という呼び名じゃなかった気もするが)のユーモラスな浮世絵は、それをも受容する「気前のいい商人」を喧伝するためではないと、言い切れないが……。
さまざまに翻弄された展示の骨組みである資料と、その背後にあった吉原の人々の実存を思うに、アーカイブということの功罪をつい考えてしまう。