スピーカーが2つあるってことはそこに2次元の世界があるってことなんですね
ご多分に漏れず、2024年パリオリンピックをつまみ視聴していた。録画してまで視聴したものはなく(そもそも録画したものを見るのが得意でない)、開会式と、女子3,000メートル障害、男子やり投げ、男子100メートル、女子団体新体操、男子ブレイキン、女子マラソンあたりをそれぞれ一部見た。それで、ブレイキンが大変よかったのでそのことを書く。ちなみに、私はブレイキンはおろか、ヒップホップ・カルチャーのことを知悉してはいない。日本語ラップを小指の爪くらい聞いたことがある。
ブレイキンは、何が正しい・よいものかということが形として定義されていない。日本の芸道では「守破離」という言葉があるが、ヒップホップ・カルチャーにおける師の教えだったり、そもそも「型破り」だったりというものがないと私は捉えた。ブレイクダンスの"break"も「壊す」ではなく「休止する」という意味合いらしい。
2024年の全日本ブレイキン選手権もNHKでやっていたので一部視聴した覚えがあるが、そのときはどう見ていいのか分からず、何とも感想を抱けなかった。よく回るなあ、動くなあ、交代のタイミングは決まっていないのかなぁ、それくらいの感想である。ところがどっこい、パリオリンピックのオリンピアンたちのブレイキン予選はとても面白く見た。全日本選手権から一昨日までの半年間に何があったわけでもない。
人体はそんなふうに動きうるのか、という驚嘆と、肉体の美しさ、DJのかける音楽にビタっとはまったときの快感、垣間見える対戦者へのリスペクトと好戦的な仕草。"スポーツ"なのか? というと、私の中ではそれが適切なカテゴライズだとは思わない部分も多くあるが、オリンピックで素晴らしいパフォーマンスの数々を見ることが出来るのは悪いことではない。B-Boy、B-girlが果たしてオリンピックに出たいと思うかどうかは別として、2024年パリオリンピックで栄誉を得る機会があったというのはヒップホップ・カルチャーの中でもユニークな機会だったのではないだろうか。2028年のLAオリンピックではブレイキンはないらしいが……(残念)。
ブレイキンの競技時間は「ラウンドあたり約1分」とかなりラフに決まっている。予選では同グループ3人に対し合計6ラウンド(各2ラウンド連続)の対戦があり、グループ内でラウンドの勝利が多い順に本戦出場が決まる。ラウンド勝利数が同数の場合、票数の合計で決まる。ラウンド勝敗は9人の審査員の判定投票の多寡で決定するのである。判定基準についての詳細はそれぞれ調べてほしい。「この技を決めたら5点」のような採点基準のある競技ではないため、見ていてもどっちが勝つかは明確には分からない。審査員の票も必ずしもどちらか一方にのみ偏るというわけではないので、ブレイキンに詳しい人でも勝敗を明確に判断することは難しいのではないだろうか。ラウンドによっては、「まぁこっちだろうな」と分かりやすいこともある。競技時間についていえば、先に済ませたラウンドで有利だった(勝利した)場合、自分の見せたいブレイキンだけ集中してパフォーマンスし、ショートで終わらせることもある。つまり、1分間やらずに30秒ほどで切り上げる判断も選手が自身で行っていいのだ。
とはいえ、競技時間という時間軸の切り取りは存在する。競技時間に合わせてDJがあるわけでなく、DJの流すヒップホップがあり、それを選手が任意に切り取り、最高のパフォーマンスをするのである。「DJあれ」とヒップホップの神がはじめに言い、それからブレイキンがあったのである。*1
私の人生にずっと影響を与えている言葉の一つに、高校の時に物理の教師が言った「私たちは連続する四次元の中に生きているんですよ」というものがある。そのときにハッとして、それ以来時折、空間や、あるいはその高次・低次の物事について考える。線形代数や幾何学、あるいは関連する理数分野を大学で学んだわけではないので、私がこれから言うことはそうした厳密な科学的世界とはズレたことかもしれないが、ともかく、私は連続する四次元の中にいるということに心底納得したうえで話すことにする。四次元というのは、この場合、一次元としての線、二次元としての線の連続である面、三次元としての面の連続である立体、そして、四次元としての立体連続である時間体である*2。私たちは連続する四次元に内包されているので、これを自由に操作することは出来ないという前提だ。
ブレイキンは時間軸を切り取る、といった。つまり、四次元よりひとつ高次の概念があったときに、ブレイキンは空間のみならず連続した時間体をパフォーマーが任意に射影として表現しているのではないか。五次元があった際の軸は何なのか、ここで明確に表現しえないが、宇宙には四次元よりも高次の概念が存在しうる、そういう啓示に繋がる美しさを私はテレビの画面から受け取った。ふだんのヒトの身体運動とは乖離した運動、他方で、ヒトには音楽に合わせて動く原始的欲望がある。ブレイキンの原始は、ホモ・サピエンスのそれと一にしながらも、その身体表現は40万年前のそれと絶対的に異なる。内奥にある精神は不変であって、外面に現れる運動が変動する。これはヒトの一つの発明で、動物としての美しささえ感じる。
ブレイキンには規範がない、というのはあまりに買いかぶりすぎだし、的確でもないだろう。規範がなければ、そこにはそもそも競技が成り立ち得ない。ブレイキン自体(ヒップホップ自体)審判のある競技として生まれていないが、結果としてオリンピックに採用できるくらいには、何らかのNormがある。そしてその中に、原始的欲望とそれを包み踊り狂うヒトがある。連続する時間体を切り取り、五次元の射影としての「約1分間」が生まれる。彼・彼女らがどう恣意的にやっているのか、ヒップホップ・カルチャーの中での神託のようなものなのか、私にはわからないが、もっと遠くにある宇宙の景色を私はブレイキンにうすら見た。
これから、ブレイキンのファンになるのか、というとオリンピックのトップパフォーマーたちの演技から入ってしまったのできっと細々と追いかけることは難しいだろう。それに、ストリート・カルチャーを競技としてやることそのものにそこはかとない違和感を覚えてはいるので、選手権を熱心に見続けること自体、いまの自分の中では腑に落ちない。とはいえ、ブレイキンの物凄さについては発見も多く、ヒトという動物をもっと好きに、愛するようになれる時間だと分かったので、五次元の射影の一瞬を求めて私はまたブレイキンを見るかもしれない。理想的鑑賞者ではないだろうが、そこに私が確かに感じた美的価値をまた味わいたい。生活が宇宙の中におかれている不思議を見た2024年のオリンピックだった。