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とりとめはない

2024-08-14(東京国立近代美術館「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」)

3箇所の美術館から3点の作品をひとつのテーマに基づいて展示する、という試みに、一種の軽薄さも感じつつ、しかし、モダンアートについてどう考えればいいかかなり分からない中で何かを楽しめれば、と思い出かけた。東京国立近代美術館には実は初めて行ったが、竹橋駅から堀を渡って向かうのも、なんとも言えない広さの芝生も、結構好ましく感じた。

神奈川県立近代美術館で《窓外の化粧》を見たときから、古賀春江の作品にすっかり惚れてしまった。TRIOでは予期せず──といっても、展覧会で何が展示されているか丁寧に確認することはほとんどないのだが──《海》を鑑賞する機会に恵まれて幸運だと感じる。

古賀春江《海》(1929)

カンヴァス上のコラージュが成されているといっていいこの作品の、妙な浮遊感。古賀春江の作品には、完全な空想でもなく、写実作品ともいえない、あわいの美しさがある。あわいの美しさと便宜上言ってみたが、あらゆるものであり、あらゆるものではない、二元的観点では語り尽くせない「中であり外である」インプレッションがあって美しい。これはどこでもなく、しかし、どこでも幻視しうる海のような。艤装を剥ぎ取られ、内部機関をもろだしにされた船や近代都市と、デッサンが巧緻とはいえない水着の女性が調和している。私はこれを好対照のモチーフとは言いたくない。コラージュ様の画面設計において、あくまで万物は海において調和しているのだ。

この作品は「近代都市のアレゴリー」として、前田藤四郎《脚と機械(廊下に立つ婦人)》(1928頃)、ラウル・デュフィ《電気の精》(1953)らとともに展示されていた。

ラウル・デュフィ《電気の精》を鑑賞する人々

私はあいにく「近代都市」の様子を目の当たりにしたことはないが、例えば中原中也の妙な浮遊感のある詩がうまれたゆりかごであったことだとかを知っている。近代都市は決してその時代に遍く存在したものでもないし、その時代に生きた者すべての知るものだったとも言えないが、それをアレゴリーとして描き出す傲慢さに私は好感を覚える。西洋におけるキリスト教の寓意であればいざ知らず、何の教義にも浸っていない──例えていうとしても、ほぼカルト宗教の「近代都市」をアレゴリーとして描き出すことは傲慢だ。作家にその意図がどの程度あったのか、もしなかったとしても、そう見られることから脱けることが極めて困難だった中で、素朴に「近代都市のコンテクストとは無関係だ」と20世紀に主張するのは苦しい。

ジョルジョ・デ・キリコ《慰めのアンティゴネ》(1973)であるが、デ・キリコ特有のシュルレアリスムを改めて浴びるとともに、この奇怪さを生む一つの要因かもしれない箇所を見つけた。

ジョルジョ・デ・キリコ《慰めのアンティゴネ》(1973) 一部

額縁とカンヴァスのサイズに不和があるのだ。カンヴァスは額縁より一回り以上小さく、この黒い部分は裏板と思われるような部分である。カンヴァスと額縁の大きさが不一致である作品は他にもあった。

吉原治良《菊(ロ)》(1942) 一部

吉原治良《菊(ロ)》(1942)もカンヴァスが額縁よりも小さく、裏板のような部分が見えている。デ・キリコよりも30年以上前の日本油画でこうした額装が行われているということは、さらに遡って西洋での起源が見られそうだ。あいにく、こうした額装のトレンドについて調べることが出来なかったが、もし何かご存じの方がいればお教えいただきたい。ちなみに、《慰めのアンティゴネ》は私のイメージしていた冷徹なシュルレアリストの作品というよりは、「表情」が表出していないなかで、オイディプス王を慰めるアンティゴネの慈しみだとか、あるいはオイディプス王の哀しみであるだとか、そういうものを受ける作品であり、優しくかなしいものであった。それは、現実を超えているのか……非現実的な表象からあくまで現実を想起するしかない私という鑑賞者の哀しみとも言えるかもしれないが、果たしてデ・キリコはどうだったのだろう?

フェルナン・レジェ《パイプを持つ男性》(1920)はポップさのある作品だと感じた。この頃にはレジェはキュビズム一辺倒と言えない作品傾向になっていると言えるだろう。

フェルナン・レジェ《パイプを持つ男性》を鑑賞する二名

アルカイックスマイル的なほほえみが特徴的な人物。パイプを持つ右手は拡大されつつ、画面全体のコンポジションを保っている。10年後、モンドリアンの《赤、青、黄色のコンポジション》が生まれるわけだが、レジェの作品にはストイックな禁欲性までは感じない。どちらかというと、これもアレゴリーとしての幾何学モチーフのような印象を私は受けており、そこに良さを思った。

フェルナン・レジェ《パイプを持つ男性》 一部

犬のような何かがいたのもよかった。

柳原義達《犬の唄》(1961)

解剖学的には正しくないが、新たな量感と、アジア人的な骨格・肉付きを感じさせる。

柳原義達《犬の唄》(1961)

体の正面から見ると、この女性の右手はほとんど見えない。この像の制作に関するエピソードを知ると「なるほど」と感じる*1。なんであれ、作品には「描かれた/作られたもの」があると同時に「描かれなかったもの」もあるのだ。彫刻はいずれにしても多方面から鑑賞者が任意の視点で鑑賞することができるので、ここでは「見えなかったもの」があることに注目できる。彫刻の面白さがある。

柳原義達《犬の唄》(1961) 胸部

どういった表情だと言えるだろうか、私にはわからない。わからないままだが、ふと、康勝の《空也上人立像》を思い出した。頬骨の隆起と、うすくあいた唇だろうか。

イヴ・クライン《青いヴィーナス》(1962)

女性の身体前面にナイフを入れて剥ぎ取ったような作品だな、と感じた《青いヴィーナス》。見ていると、縄文時代の遮光器土偶のような、大地のリズムをほのかに彷彿させなくもない。

ジャン・アルプ(ハンス・アルプ)《5つの白い形と2つの黒い形の配置》(1932)

なんだかかわいらしいなぁと思った作品。有機的なフォルムとしてトリオを組成していたのもあり、かわいいと思っていいのだと確信した。

ジャン・アルプ(ハンス・アルプ)《5つの白い形と2つの黒い形の配置》(1932)

あたかも額縁の中の絵画のようだが、斜めから見た様子からも分かるように、これは立体的な作品であり、絵画とは言い難い。彫刻なのだろうか? 絵画なのだろうか? と不思議に思う。「1927年にアルプ最初の個展がパリのシュルレアリスト画廊で開催されたころから、アルプの作品で最も著名な有機的な不定形を持つ「具象彫刻」の制作が始まる。」*2 ともあるので、これは彫刻とカテゴライズしていいのだろう、まぁカテゴライズがなんであれ、この作品はかわいらしいのだが。ぼうっと見ていると、水槽の中の魚たちを見ている気にもなる。

ジャン・アルプ(ハンス・アルプ)《植物のトルソ》(1959)

引き続きアルプの作品から。植物のトルソとはいうが、人のように見える角度(斜め後ろ)があり、面白い。

冨井大裕《roll(27 paper foldings)#15》(2009)

折り紙で出来ている作品。どうやって保管するんだ……と思ったら、展示されてはいないが「指示書」も作品として存在するらしい。保存や修復について作家自身が定義することはかなり稀で、ある意味、市井に開かれた芸術鑑賞というものも十分な時が経っていることの証左と言えそうだ。この作品を完全に模倣した際に、オリジナルは存在するか? というと、やはり、模倣者が何を受けてそれを作ったかというと、オリジナルは存在することになるだろう。では、何も知らない人がこの作品とほぼ同じような折り紙の作品を制作した際に、それは、どちらが高く評価されるべきなのだろうか。問い自体に恣意的な企みを含んでいるが──最近の分析美学的に言えばそれもやはり冨井の作品のほうがより深い美的達成がありうると思いつつ、他方で直前に言ったように、高く評価されるべきか、という問い自体に多分の「意味の無さ」もあり得るような気がする。私は、この作品の色合いと質感が好きだから好きなのであって、コンテクストまでいちいち考えて写真を残したわけではない。

今回の展覧会には小学2年生の娘を無理やり連れて行った。彼女が楽しいと思ったかどうかは分からないが、行きたいと思っていなくてもこうしたことに連れ回してみるのもいいと思うようになったのだ。実際、娘と話しながら鑑賞するのも面白かった。モダンアートは抽象的な表象も当然多くなるので、これは一体なんだろう、と考えるのもよい。TRIO展は比較鑑賞の水先案内を行っているわけで、近現代美術に苦手意識がある人によりそった展示だった。解釈違いがあっても、それはそれでいいじゃない、という鷹揚な気持ちで楽しみましょう。