sixtyseventh.diary

とりとめはない

2023-02-11

今朝は寝坊。

上の子が洋裁教室なのでその間ピーナッツサンドを食べながら本を読む。ついでにユースキンのリップクリームを買ったら700円くらいした。そんなに高かったっけ……。

昼飯は食べず、うっかり昼寝をしていたら夕方。ピザを頼んで娘に勉強をさせ、本を読み就寝時間。

母は私の小さい頃に手話をガチっており、私も仲のいい子の親御さんがろう者であったり、ガールスカウトの一環か、ダウン症か何か障害を持つ子とキャンプをしたり、と、あんまり障害者やマイノリティに対して向こうの人という印象がない。犯罪の加害者にもかろうじてならなかっただけだし、被害者もそう。セクシュアリティについては一つ前の記事参照。

マイノリティは庇護すべき存在だから際立たせる、というのはどうもしっくり来ず、隣の家のばあさんや、改札でもたつくじいさんや、喫茶店でそわそわ声を上げるにいさんや、そういう人をありのまま過ごさせる心持ちみたいなものを自分は持っていたいと思うし、困っていたら困っていることを助けるし、でも、彼ら彼女らは私と同じように赤ちゃんではない。

ともすると、例えば言語の通じにくい外国人の判断力まで見くびることはないかとか、視覚障害者を何においてもかわいそうな人としてないかとか、犯罪加害者を自分より下の存在としてないかとか、いろいろあり。そういう人に福祉は向いてないのだが、そういう人は変われると思っている。身近にいないから、よくわからないだけだ。

他方で、当事者が当事者同士語りやすいというのを否定することもないが、それが分断を産みはしないか。私はセクシャルマイノリティのコミュニティに属せないし、発達障害者として苦しみを吐露するには生活できてしまっている。そういう些細な、ラベリングによる分断があちらこちらで芽生えないか、危惧している。

隣人愛、というようなことが出身中高ではよく言われていて、私はこの年になってしみじみ良かったと思う。いや、隣りにいる人を愛するというか、人を隣において愛せば良いのではないかと解釈する。私の隣には家族のいることが多いが、家族だけでなく、もっと色んな人が隣りにいる。大江戸線で、山手線で、京浜東北線で、銀座線で、蔵前橋通りで、春日通りで。

そして、気に食わない人もマイノリティかどうかに関わらずいる。当然、マイノリティだからといって無垢な子供ではない。大体無垢な子供っているのかよ……。そういう、人だからしょうがないよ、を積み重ねるしかない。この属性だから苦手なんでなく、この人は気が合わないというのはある。残念ながら双方にある。

そんなことを最近ずっと考えている。私は、なので、当事者が当事者同士で閉じこもってるならそれに割って入りたい。私が私のままでこの街で暮らすように、あなたはあなた的な人以外と一緒に、あなたのままでこの街で暮らす権利もある。そうしたいなら、一緒に歩こう、と思う。