sixtyseventh.diary

とりとめはない

教育熱心な親になりきれない(子育てについて)

私は全国の小学校低学年の子と暮らす人間の中では明らかに教育熱心な方だろうと思う。というか、教育について──ちゃんといえば、学歴やいわゆる勉強、試験で成績がよくなったりある現象を一定程度真っ当に解釈したり分からないことというのはどういうことか自分なりに理解したり、というようなことをこの記事で「勉強をやる」ということにするが──色々考えすぎている節があるのだ。

あれこれ書こうとするととんでもない分量になりかねないし、今回の主題がぼやけるのでなるべく簡潔にまとめると、私は私のいままでの経歴や生活を振り返ってみて勉強をやれる方でよかったと思うし、他方で、勉強以外そこまで人より優れていることはない。人より優れているということはどういうことかというと、勉強をやってできていることにより、被雇用者としてちょっとだけいい評価をされていると、自分について認識しているのだ。ちょっとだけいい評価をされている、つまり、金になるということは、一応は悪くないことだ。で、金になるかどうかはともかく、勉強をやることによって自分の生活は無味乾燥なものでないし、頭の中はずっと五月蝿いけれども、とにかく、自分と粘り強く生きていけるのは自分が勉強をやってきた、やっていく途上で得た、知識なり解釈の方法なり、そういうものと共にあるからだと考えている。私にとって勉強をし、それを一部であれ楽しんでいくというのは、人生にとってよいことであり、そして、子供に繋げたいことなのだ。

教育熱心な親、とりわけ子供に高学歴を期待し勉強をたくさんさせる親になりきれない、というのが今回の主題。高学歴を期待するのは、多くはその先にある就職で金を稼げる会社員になることが一つの目標であり、その目標を達成すれば、資本主義社会において金があり、高評価を受けるべき身分があり、基本的には幸せなのだ、ということになるだろう。これがある面では誤っている、特に、高学歴を得たところで、必ずしも幸せにはなれない(金があっても幸せではない、そもそも高評価を受ける就職が達成されないので幸せではない、いかなる身分を得ようと悲観的で幸せを感じない、色々)ということくらい私は分かっているし、たとえ幸せになる確率を上げるために勉強をさせて高学歴にしたい、と言い換えてみてもこれは素直には賛同できない。あっても腐らないので学歴が高いことを拒む必要はないが、学歴で評価されるかどうかというのは、流石に30歳過ぎるとどうでもよくなる。新卒カードには学歴がでかでかと書かれているが、学卒で素晴らしい手札があることは、人生の幸福を必ずしも決定しない。

そういうこともあり、子供の成績をあげようとする教育熱心な親が高学歴や華々しいグローバル人材になることを期待しているであろう姿勢を見ると、本当にああはなりたくない、と思ってしまう。思ってしまうが、私の言う「勉強をやる」を子供に施そうとすると、結局同じことをしているようにしか見えないのだ。これが本当に辛い。辛いポイントその1である。

高学歴を得ることそのものに人生の幸福における意味はさほどないというようなことを書いたし、それは全く嘘ではないが、いい環境を選べる=当人にとっていい学校、おもしろい学校に行くことには人生の幸福にとってよいことだ。私は、100点満点ではないが他の選択肢よりずっといい学校に行って、振り返れば悪いことばかりじゃなかったとよく思う。これも、要は高学歴を得ることは幸せだと思っているのではないかと短絡的に解釈されるのが辛い。そうでもあり、そうではないのだ。辛いポイントその2である。

で、とにかくどう思われようが、いいなと思った学校にアプローチできるよう、広く教養をつけるだけでなく、試験に対応できる小手先のテクニックをちびちび身につけたり、基礎的な勉強の能力を強化したりすることを目論む。私は、その方が何もしないよりましだと思うし、様々な試行錯誤の末、試験に対応できるような勉強の鍛錬を子供単独で行うことはおおよそ期待できないと理解した。習慣つけもせずにひとりでにあれこれ、試験に対応できるような勉強をする小学校低学年の子供はほんの僅かだ。まして、鍛錬もせずに解ける天才児、あれは、バットをもたせればすべての子供が大谷翔平になるというくらいありえない話であり、まぁ大谷翔平が実在するように、それほど鍛錬もせずに試験をパスする天才児も実在するのだが、実在することとそうなるべきであるというのは全然違うのだ。つまり、少なくとも自分の子供には、どんないい学校・おもしろい学校に惚れ込もうとも「それは無理」と諦めなくても済むような基礎学力とほんの一匙の学年相応の応用能力をつけてほしいのだ。これは子供がどう思うか、どう願うかを考慮した期待ではないし、他にやりたいことがあればその練習や訓練を頑張ればいいと思うのも本当だ。ただ、別にないのだ。一心不乱に囲碁にうちこむとか、もう大人顔負けの謎知識をつけるとか、あるいはゲームがハチャメチャにうまいとか、ああいうのも現時点では見えないのだ。それもやっぱり誰もが大谷翔平にはならないだろうということだ。せめて大谷翔平に憧れていたらもっと違う気もするが、とにかく、そのifはあまりに意味がない。

で、結局のところ、小学校で課される勉強にプラスしてやっぱり何か勉強をしてほしいというめちゃくちゃシンプルな話を、ごねているのは、やっぱり教育熱心な親という自分の見え方に折り合いをつけづらいこともあるし、これが災いして「勉強をやること」がつまらないことだと認識されることも嫌だし、湯水のように使える金も時間もないし。だから年相応にこなしていただき、いわゆる受験のシーズンが近くなってから頑張ればいいんじゃないですか。というのは極めて真っ当な結論の案でもあるが、なぜそうしないか。それは自分の子供がやたら成績のいい科目があり、いま何もしてないのにこれなら……とやっぱりやっぱり偏差値の夢を見てしまう。高偏差値の中学に行かないといけないと思っていないが、せっかくこんなにいいなら……と思ってしまう。50メートル走8秒の子供がいたらスポーツをやってほしいと思うじゃないですか。一歩引いた私でいたいのに、親の欲目がチラつきまくって。ならもう3年の夏くらいまでは、嫌だといわれるまで勉強を一緒にやる方がいっそ健全なんじゃないの、うーーーん、ともはや自分自身のあり方に悩んでいるときに、グノーブルからやってくる入室基準合格の電話。先日受けさせた公開実力テストの結果ね、分かるよ。そう、その科目異常に成績いいよね、早稲アカでもサピックスでもそうなんだよ。はぁ。私の考えはやっぱりまとまらない。