sixtyseventh.diary

とりとめはない

2021-03-11 月日は流れるもの 景色も私も変わるもの

10年前のことを思い出してみようと思う。

あの日、私は大学の春休み、3年次にあたるものの留年していたので同期のやっている就職活動はしないまま、なぜか小説を書いていた。

なぜか、というのも、春休みだから理由が思い出せない。長期休みでなければ確かにゼミがあるので、合評会に伴って小説を書く必然性がある。新人賞に応募をしようと思っていたのかもしれない。

そういえば2011年に入って比較的すぐ椎間板ヘルニアをやってしまい、腰爆弾を抱えてから10年になることにも気づいた。ヘルニアがあまりにしんどく、ツタヤのアルバイトを泣く泣く辞めることにして、有給を消化していた時期だった。

とにかく、だらだらと、大倉山*1の1Kで生活していて、とても小さいテレビをつけたまま、ラップトップに向かっていた、10年前の14時頃。

緊急地震速報が鳴動したかは私の記憶にはないのだけれど、とにかく揺れが大きくなることにびっくりして、揺れがおさまる前に母に電話をかけた。揺れている最中はまだ携帯電話が繋がったのだった。しかしそれから割とすぐ、キャリアメールは使えなくなったかと思う。あの頃は確かiPhone3Gから買い替えたiPhone4あたりを利用していた。

家のものが壊れた覚えはないが、ユニットバスの水洗トイレのタンクから水がこぼれていたことには驚いた。ちゃぷちゃぷ揺れてしまったのだろう。そんなに揺れたんだなと改めて感じた。そういえば電柱はグワングワン揺れているように見えたし、揺れのあとベランダに出て外を見てみたら、同じように外に出てなんとなく町を見渡しているひとを何人も見た。

あとはテレビでずっと、NHKかの中継を見ていた。もう放映されることのない、そして、それまで放映されたことだってないような、中継。速報テロップで第一報が出た、荒浜地区での多数の遺体発見の報せが私にとって随分深い記憶になっている。津波を見た、そのテレビ液晶の事実が、別の角度で報せられる。

当時の恋人(今の夫だが)にはGmailTwitterで早々に安否確認をとって、しかし大倉山からは遠い東京都内の状況が心配になる。何がどうなるかわからない。

武蔵小杉のあたりで地震に遭い、東横線で帰れなくなってしまったゼミの先輩が困っていたので、うちに招く。その間に、バイト先のツタヤへDVDを返しに行く。Zガンダムか何かを見ていた頃だと思う。たまたまバイトの同僚に会い、ツタヤの隣のファミマの前で煙草を吸いながら、ビビるね、なんて話をしたような気がするがもしかすると妄想かもしれない。

菊名の東急ストアにはもうあまりものが残っておらず(日暮れ前なのに)、しかし先輩に出せそうな惣菜か何かを買った気がする。

先輩がたまたま来てくれなかったら随分不安な夜だったろう。夜、気仙沼の沿岸の火事の映像を見かけ、しかしもうしんどくて早く寝たいと思って早々に寝たような気もする。先輩の花粉症がひどかったことも覚えている。なんだかんだ眠れず23時位まで起きていたかもしれない、夜も深まりつつある時間に、確か東京メトロで一番早く動き出したのが銀座線だった、はず。当時、母は銀座線沿線に住んでいたから、さっさと帰れたと喜んでいた。

覚えているようであんまり覚えていないような気がしていて、この記憶も毎年思い出すたびにちょっとずつズレていくのだろう。それでも、私は毎年思い出すんだろう。

*1:新横浜と菊名の間あたりにある東横線の各駅しか停まらない町