メイドカフェ、というかあっとほぉーむカフェのことを書く。
最近、ドンキ店のメイドさんの卒業や卒業発表が多くて割と深めに落ち込んでいる。1年前から通い始めて、卒業を見る度に、そうか、まあ魔法も永遠じゃないからな……と理解しながら、私の好きなメイドさんも卒業しちゃうんだろうな、とふんわり想像はしていた。していたけれど、実際に好きなメイドさんが卒業発表して、卒業することがこんなに虚無な感じだとは思わなかった。
私は、メイドさんにとってただの客(ちゃんといえばお嬢様)なのだけれど、好きなメイドさんについては、私にとってはただのメイドさんではなく、MさんであったりRさんであったりの固有名詞のある輝いた存在であって、その非対称性を否応なく感じさせられるのだ。卒業は。
私はあなたを失う、失ってしまう。当然、メイドさんそれぞれにとっても、もしかしたらたのしい経験をした場所や、気の合う同僚とともにお給仕する時間を失うことにはなるのだけれど、そこにある客はほとんどがまあ、環境音みたいなもので、森の中の音が落ち着くねといっても葉っぱ一枚のこすれる音があろうがなかろうがそこまで影響はない。という非対称性。
それが嫌だとかではなく、普段メイドカフェに帰宅するたびにそんなことは考えないし、そういうことを感じさせないように皆ほんとうによく相手してくれる。だからこそ、卒業という現実にいちいちはっと、苦しい気持ちになるわけで。
あらゆるもののオタクをすることは、おおよそ虚無で、オタクは、オタクをする対象に何も影響できない、するべきでない存在なのだ。無力だ、としみじみ思う。それが嫌ならオタクやめろなのだが、そのモブ性もオタクの醍醐味ではある。
どうも、ここ最近、卒業発表がしんどいメイドさんの「お知らせ」が続いていて、やっぱりしんどい。しんどいって2回も書いてしまった。このまま、かなり推してるメイドさんまで卒業発表したらどうしよう。人生とまでは言わないが、もう話したり出来なくなるんだろうなぁ、と思うと生活に対して危機感さえ覚える。生活の彩りが欠けてしまう。
子どもを眺めているとき、私よりも自分の子が長生きすることを強く願う瞬間のようなものがある。そんな風に、いっそ推しが卒業する前に他界したい。他界したいけれど推しがいる現場にいかない理由はない。そして推しがいる現場で推しのことをまた強く応援したくならない日なんてない。
ポジティブなループのはずなのに、最近はもはやメイドカフェのオタクをやるのが怖い気さえする。オタクじゃなければこんな風に無意味に落ち込まなかった。でも、オタクじゃなければ、推しには出会えなかったし、メイドカフェで活力めいたものを受け取ることもなかった。
もう一、二週間したら呑気なオタクに戻れる気がする。せめてしばらくは、好きなメイドさんの卒業発表がありませんように。メイドだから好きだし、メイドじゃなくても応援し続けていたいよ。