sixtyseventh.diary

とりとめはない

2020-05-25 見つからないし全く気にしてない

今日はついに分かった自分の知能指数についての話が主になるし、先に言っておくと130を超える数値が出たことに関する話題である。

で、第一段落を書いてから配偶者とビールを飲みながら話していたので、丁寧に書く気力がなくなってしまった。

知能指数が130を超えるということは、まあそんなにきれいな正規分布を描かないとしても、おおよそ、知能指数が70を下回る程度に社会から外れているということで、このギャップに対する支援は、この国にはほとんどない。

極めて普通の公立小学校に通ってた時代は、私が最も社会を憎んでいた時代だった。要は、成績優良者は聞き分けもよく、教員の言うことを素直に聞くべきという姿を求められたし、それに従える級友もいた。が、私には従えなかったので、わかっている授業内容の間落書きをしているのを見咎められるだけでなく、「この前ノート熱心に取ってたよね(落書きしてただけ)、先生どこまで授業やったか忘れたから見せてくれる?(アホか)」といびられたこともあり、本当にゴミみたいな小学校の記憶しかない。それでも日能研という安住の地を得て、似たような知能水準にある人らと過ごすことができたのは救いだった。公立中学校に進んでいたら、神童も二十歳過ぎればただの人どころかメンヘラ大廃人だったろうと思う。

閑話休題。要は、知能指数が高かろうがそれは、社会の大勢とのギャップがあれば、ハンディキャップにすぎない。

多少、社会規範上において、理解が早いこともあろうが、努力せずとも理解が早い時に、社会は遅く見える。どうしてこんなことをしないといけないのかわからない、という思いで、人生のほとんどの時間が埋まる。

自分のこと天才だと思いこんでいるキャラクタでやっていっており、知能指数がそんなに高くなかったらウケるなというところで、多少高かった(とはいえ全人口の2%程度はいるだろう)というのが、そんなにウケなかったのだ。自分の中で。いや、天才というほどではないわけだけれど。具体的には145は超えないわけで。

このギャップに対する手当はこの社会にはない。うまくいけば給料はもらえるかもしれないけれど、私にはそんなにコツコツできもしない。仮に知能が高いほうが有利な仕事があったとして、会社員である以上、それは利己ではなく利他的に奉仕する形で遂行するしかない。結果的に報酬が増えるかというと、一定増えるかもしれないが、基本的には、高知能へのフリーライドは社会において罪とみなされない。罰も無い。一方で、高知能が好き勝手振る舞うことは、社交上の罪であり、罰がある。人はいつも、「本当に頭がいいのなら、」という枕詞さえつければ、俺のオナペットをおしつけていいとさえ考えているように思える。

つまり、もういろんなことに対するやる気が少し失われた面がある。いろんなこと、をもっと細かく言うと、私が私だからできることではないこと、だ。私じゃなくても頑張ればできる仕事は健常者が頑張ってやればいい。私は私の好きなように、私が大切だと思うことをやりたい。健常者のためにチューニングされている社会にずっとさらされて、まあまあ頑張って生きていき続けるのは、楽なことではない。そうでしょう。

 

心理検査では他にもわかったことがあったのだけれど、もう色々書くのが面倒になったので、気が向いたら書く。