sixtyseventh.diary

とりとめはない

劇場版少女歌劇レヴュースタァライトの話

下記、ネタバレしかないので、未見の方、またはスタァライトに全く興味のない方は読まないことを勧める。また、これは2回鑑賞の感想で、メモである。

 

 

 

 

 

 

 


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はじめる。

まず、通底しているのがメタファとしてのキリスト教あるいは聖書モチーフであり、それ抜きには語るべきではないと私は考えている。映画パンフレットにおける、ピエタジーザスクライストスーパースターへの言及。これは明らかに聖書がモチーフとなっている。一方で、聖書やキリスト教そのものはスタァライトにおける主題ではなく、舞台少女の生と死、換言すれば、生き様と死に様の描出がスタァライトの主題だと感じている。

3回目の上映時間まであまり時間がないので時間の間に合う範囲で書く。

ひかりと華恋の髪留めのモチーフが一番わかり易い。ひかりの髪留めは、茨の冠と解してもそこまで齟齬はないと思う。他にも含ませているモチーフはあるだろうが、茨の冠のメタファと考えて問題ないというのが私の結論。これはアニメの段階でもそう思っていたし、劇場版でその感覚を強固にした。

茨の冠には、イエス・キリストを嘲るという……まやかしの、ユダヤ人の王であるというような意味合いがある。ひかりは、華恋にとって、あるいはひかりの通ってきた経歴は、他の舞台少女にとって、王としての外観を備えていた。ただし、それは、ひかりの真の舞台としては未熟ともいえた。ひかりにとっての真の舞台は、王立芸術学院に合格した自分の経歴でもなければ、華恋とのスタァライトでもない。真の舞台など、ないのかもしれない。スタァライトを演じきったという華恋のセリフからも示唆されている、スタァライトは絶対に揺るがない舞台ではない。二人にとっての通過儀礼に過ぎないのだ、運命の舞台を演じきることは。と、私は現時点で解釈している。

その茨の冠を渡したのは他ならぬ華恋だ。華恋の、華恋における、華恋のための茨の冠なのだ。それを最後のレヴューで彼女は外す、解き放つ。華恋はきらめきで貫く。ひかりちゃんに負けたくない。ひかりが華恋のための王でなくなる、それが華恋の解放だと思う。

一方で、華恋の王冠の髪飾り、これはトマトにも置き換えられると私は解釈している。トマトは、禁断の果実のモチーフとしても描写されている、と私は今回の劇場版で捉えることにしている。確度はそこまで高くないが、説得力はあると思う。ひかりが華恋に授けた王冠の髪飾り、すなわち禁断の果実は、知恵であった。舞台という知恵。宿痾。髪飾りを授け合うあの東京タワーでの運命は、約束ではない。

また、星摘み……あるいは星罪の祭りを、原罪を、ひかりはロロロでのオーディションの果てに償おうとする。ここについては確かな自分の解釈がない。償いきれない原罪を、演者の舞台への欲望を、何度も飲み込む覚悟の物語だというステートメントが劇場版なのかもしれない。

だめだ時間がない。また書く。