sixtyseventh.diary

とりとめはない

2021-07-19 感想でもなく

昔、もっとちゃんと絵を描いていた。今ちゃんと描いていない。

中学生の頃に、絵を描くことに強くハマった。もっと小さい頃から落書きをするのは好きだったけれど、もっともっと書きたい、と思ったのが中学生の頃だった。勉強のできる子ばかりの学校に進み、勉強が人より出来るというアイデンティティが剥がれたことも大きく影響したのだと思う。

中2のときの行事のしおりの表紙絵がダサすぎて死にそうだったので、それ以来、学年の刊行物のしおりやプログラムはほぼ全て制作に関わった。描いた子が誰かは知らないけど、背中に羽の生えた女性を少女漫画チックに描いているそれは、私の受け入れられるものではなかった。もし描いた同級生が読んだら申し訳ない。

絵をたくさん描いた。当時はそこまでインターネットに情報は溢れていなかったけれど、お絵描き掲示板に投稿したり、いろんな手の模写をしたり、できる範囲で楽しんでいた。

お絵描き掲示板ではそこそこ仲間が増えてきた。でも、群れない中に本当に、かっこいい絵を書く子がいた。真似しようとしたけれど、真似にもなれないことが分かった。心のなかでは、マウスで限界があるとか言い訳をしたかったが、とにかく、そのあたりから、絵を描くことそのもので名を成すことは私にはできないと逃げた。中3くらいのころだと思う。

それから、グラフィックデザイナーになりたいとか、クリエイティブな夢は抱えたけれど、いろいろ、胆力のなさと、天才じゃないことに向き合えなかったことが原因で専門教育を受けるには至らなかった。私は私の満足行く範囲で描こう、と思っている。今でも同じように、ちょっと絵がうまい一般人という一番あたたかいゾーンにいる。

あるいは、もっと、逃げることができない圧倒的なライバルがいたらどうなんだろう、と思った。そういえば、中高にも私が悔しくなるようなものを描く子が一人だけいた。それでも変わらなかったから、多分、私は絵を描く天才ではなかったのだ。彼女も、知る限りではクリエイティブの専門教育を受けることはなかった。

大人になってから、こういう過程に対してあんまりよくなかったなと思うときはある。本気出してたら、というifに縋りたくなったり、こんなものよりもっと面白いものを作れたかもしれないというifに驕ったり。努力できなかったことより、なにより、自分の才能の限界を知ることが怖かったのだ、と、諦めた芸大受験を振り返る。デッサンの体験授業で既に逃げ出した、そこはいつものコンフォートゾーンのように褒めてくれる人ばかりではない。スタートラインに立つことから逃げた。

それでも時折絵を描いていた。同人誌を出すから絵を描いてくれと頼まれたことがあった。彼女は短歌をつくっていた。よい短歌だった。現代詩的な楽しみ方を知った。

私はそれから小説を書いていた。小説が商業誌にのることになった。彼女に教えよう、でも発売まで掲載を信じられないな、と思っていたら、発売日のあたりに彼女の訃報が入ってきた。自殺してしまったのだ。

その一ヶ月くらい前に電話がかかってきたのは覚えている。私の誕生日かそのあたりで、なんとなく一人で河口湖や青木ヶ原樹海、氷穴や風穴を見た帰りだった。今入院してるの、精神科に、と彼女は言っていた。雨はふらずじめっとした6月だった。私も精神的に安定している方ではなかったから深入りはできないと思った。また自由が丘でご飯でも食べようよ、退院したらさ、みたいなことを言ったかもしれない。私はいつも出任せしか言わないから、覚えていない。

それで、私は、もっともっと執着を、生に執着をさせられるようなことを言えていたら、もう一度くらい彼女に会えていたのだろうかと考えていた。私のせいで死んだわけでもないのに、なんで死んだんだよ、何もできない、と泣いた。そして怒りを感じた、死んでしまうなんてずるい、暴力じゃないか、と泣いた。未だに、墓にも葬式にも行けていない。

そうやって、自分の心の柔い部分に繋がった人間が死んでしまうことは本当にしんどいことだった。

そんなことやなにかを思い出していた。これはただの私の感想と、感想にもならない記憶がたり。夏が来る、7月が来るたびに、彼女のことを思い出す。