sixtyseventh.diary

とりとめはない

2021-07-24 さあその牙抜きましょう

今朝、私はいわゆるトロッコ問題で、1人を犠牲にできないタイプの人間なのかもしれないと思った。

例えば大会中に死人でも出れば、大会は見直されるかもしれない。そのひとつの犠牲が、この都市の悪化を多少改善することになるかもしれない。

でも、私は大会中に死人が出ればいいとはやはり思えない。大会を中止出来るならしたほうがいいとは思うが、そのために明確な犠牲を払わなければいけないのだとしたら、やはりそれは願えない。

もちろんこれは極端な論理だ。犠牲なんか出さなくとも大会を中止できるのかもしれない。

あるいは、大会を苛烈に否定しない人間までも、強くキャンセルすることにもあまり同意できない。自分がキャンセルされたくないというのもあろうが、そんな風に線を引いていって――あなたは悪だ、とラベリングしていって、果たして結果は良くなるのかというとならない。せいぜい、ほらお前らが悪だったから私達はこのように苦しんでいるのです、という主張のエビデンスにしかならないのではないか。

誰が悪か、何が悪か、それらを個人同士で断定することに大きな意義は私には感じられない。どうすればよくなる可能性があるのか、そしてどれがより速やかで、ありうる可能性なのかを考えないと、分断されていくだけだ。私達は。

私は開会式の中継をなんとなく楽しんだ方だが、それはそれとして、明日の朝にでも大会は中止出来るならしたほうがいいと思う。開会式のクオリティなんかは私が論ずるまでもないし、おおよそ、友人の感想と私の感想は変わらない。

スポーツは見たい。でも、いまこの東京でやるべきことなのか、この大会は。というとそれは支持しない。大会が終わっても私は、私達は東京に暮らし続けねばならず、それに対する影響は恐らくある程度以上に残る。だったら早く大会はやめてほしい。

どうしたらやめられるのかは分からない。今やっているスポーツ中継を見ないからといって中止に繋がるとは思えない。終了後に、楽しんだやつの一人としてあらゆる角度で計数されることはあるだろうが、それは中止できるできないに関わらないし、そこに私の矜持は全くない。

デモをやることが中止になるのか、大会を見る人や参加している人を貶めることが中止に繋がるのか、そう考えると、わざわざハンガーストライキやる意味も感じられない。

私の今日の理想は、明日大会が中止されることで、大会を結果的に肯定しているような姿勢を持つ人間として見なされることや見なされないことは判断軸に入っていない。だから噛み合わないんだろうな。

で、どうすれば穏当に中止されるのか、これがわからない。穏当にというか、人が死んだりしない範囲で。でもそんなことを優先的に考えることも選ばない。私には私の生活がある、それが結果的に蝕まれるとしても、それはそれ、これはこれ。

そんなことを考えている。

もっと簡単なことを言えば、人が楽しんでることを上から目線で腐す態度とられたらそれはただいらっとするんだよな。いや別に私に直接言ってないから、私も知らん人にまで直接言いはしないんだけど。攻撃するならするでもうちょっと理路くれない? と思うんだよなぁ。個人間で殴り合って得るもんないじゃん。アホくさ。だからもし明日大会が中止になってなければ、サーフィンやロードレースを中継で見ると思うよ。そんなもんだよ。