sixtyseventh.diary

とりとめはない

2021-09-10 転び続けたいね 遊び続けたいね

キンモクセイの香りがぶわっと降ってきた、残暑の金曜日。

難聴はすっかりよくなり、もとからよく聞こえてない分を差し引けば、まあ大体日常通りだ。ステロイド剤の副作用が私にはしんどく、不眠のぶり返しのごとき睡魔がよく押し寄せている。一週間まるまる仕事を休んで、だいぶストレスが落ち着いた気もする。仕事になにか原因があるわけではなく、私が切迫した気持ちでやっていたのが良くなかった部分もあろうと思う。

一週間休むと、仕事の手の付け方を再考したい気にもなり、とはいえ、休んだ分の埋め合わせで今週は結構時間と気持ちを過ごしてしまった。あんまり負荷をかけすぎないようにしないとな、と勝手にそこそこセーブしておいたのもあるが。仕事の、企画をするだとか、進行していくだとか、をもう少し腰を据えたやり方にしたいと思う。でも、腰を据えるための環境つくりを望みすぎると、また私ではどうしようもない範囲に突き当たって嫌になるだろう。そんなことをぼやぼや考えながら、一週間はあっという間に過ぎた。私ではどうしようもできないこと、どうしようもできないながらに足掻くべきこと、そのあたりは落ち着いて考えたほうがいい。どうも、慌てていると、すべてに足掻きたくなるのだが、そういうところが私の良くない部分だと思う。ままならなさにイライラするのだ、ままならないこともそれはそれで自然だというのに。

今日で専門学校の社会人向け夜間短期スクールが一つ終わった。先週はすっかり病気で休んでしまったのが本当に悔やまれるが、やっぱり今までにない場に飛び込んでいくというのはなかなか面白い。場、というものの貴さが2020年以降骨身に染みるように思う。少なくとも私は、オンラインで何でもいいとは思わない。場を、磁力のようなものが通う必要があるときには、やはり設定した方がいい。こんなこと言ってると、履歴書は手書きのほうがいい、みたいな老害になるんだろうか。それでもよくて、私はオンラインでの場に、ネイティブのように馴染むのは難しい。拒まないし、利便性も否定しない(取引先の商談なんかはほんと便利)。ただ、ファジーなコミュニケーションをオンラインでやることが不慣れだということ。そもそも、ファジーなコミュニケーション、というか、ディスカッションの得意な日本人ってあまり見ないけれど。オンラインでファジーなことを言うと、どうしても、それが尤もらしい主張のように受け取られてしまう気がして、やはり苦手なのだ。私のいうことはほとんどフラッシュで、ライトなんだから、皆もっと適当にやってくれないものなのか。とにかく、オンラインの会話で、適当さを出すのはほんとに難しい。

自分のことは自分がやる、というビジョンを描いてみる。私はなんとなく、人のせいにしたり、環境のせいにしたりで、自分のことを粗末にした時期があった。今ではもったいなかったなと思えるけれど、それもただ、生き残って32歳になったからそう思えるだけだ。

いつだって、何でもやれる、何にでもなれるのだ。私はだから、もっと自分の直観を研ぎ澄ませて、自分のことは自分がやる、と勇気を持って過ごしたい。勇気をひねり出すには少し大人になってしまったが、もっと、自分勝手に、自分のためになることをやりたいなぁとワクワク考えるのである。

ややリベラルに寄っているきらいはあるが、政治参加とは、ということを考えるのには平易でいいんじゃないでしょうか。高校生〜大学教養課程あたりにちょうどよさそうで、さっと読めます。

これはかなり良い本だった。もちろん、率いてきた当事者の理想や弁ではあるわけで、中にいる人からしたら抗弁したいこともあるかもしれないが、しかし、読んでいて非常に、気持ちが良かった。精神医療の置かれた環境ってなかなか苛烈だと思うが、いつも世話になっている以上、応援したくはなる。公立病院経営のマインドセットとして、納税者からすると理想的に思えた。都立病院で彼のような人が病院経営をしたというのは都民としても心強いことだ。

政治学、というものを解きほぐしてやる一冊。豊島岡中高での講義が元になっているので、読みやすい。こんな講義を受けられた生徒が羨ましいな。2018年の出版で、まさか2年後に、学術会議のごたごたに巻き込まれると宇野重規氏も思わなかっただろう。確かにリベラル寄りの見解もあったが、こういうことに巻き込まれるとなると、現政府はビビりすぎでは? と思ってしまう。豊島岡の生徒の考え方もほんの少し垣間見ることができて、それが非常にバリュアブルでした。