sixtyseventh.diary

とりとめはない

考え垂れ流す

自分というものを演出することにこだわりを持つことが、私の正義という話。

リモート合ってないな、っていう人も傍から見てるといる。社会的な合意かはさておいて、その人が何をしておりどうしたいと思っているのかが分からないと私はあんまり仲間意識を持てない。仲間意識なんかなくても仕事は出来るのでどうでもいいのだが、単に自分の中での泥っぽい信頼は作れない。もちろん、泥っぽい信頼があろうとなかろうと、これも仕事は出来るのだが、こちらについては「あの人ならやってくれるな」という期待がない状態で算段することになるので、そういう意味では私の心の中で人員不足となるのである。あの人はこのレベルまで噛み砕いたらやるだろう。そこまでブレイクダウンするならカウントしなくていいか。今忙しいのかよくわからんし。

私は、たぶんすべての局面で自分のキャラ設定があって、その演出に心を割いている。たぶんここでも。家庭での会話くらいじゃないか? いや、それさえもどうか。いい加減だけど鋭い妻を演じているフシがあるかもしれない。

私というものを演出するのは礼儀だと感じている。こだわってこだわって演出していく。それは、私というものを理解しやすくするため、期待を適切に作るため、ときにそれを裏切って私がほくそ笑むため。そういう中で、自分自身の演出さえろくにしないでパフォーマンスも見えない人がいると、価値観が違いすぎてわからんなと思う。そして私もそこまで暇じゃないので、見なかったことにする。期待するというのは非常にヘビーな行為でもあるので、期待を満たさないだろう人のことを検討したって徒労だと思うのだ。仕事以外でもそうで、お前はいったい何でありたいのか? ということが分からない人と過ごす時間はしんどい。

そんなことを考えるきっかけがあったわけでなく、恐らくあなた方のことではないのだが、私は死ぬまで私っぽい何かのために色んな研ぎ方をするんだろうね、とも思ったのだった。私は私にこだわり続けて死ぬ。