sixtyseventh.diary

とりとめはない

気まずくないまま表現したい(文フリなどについて)

Xでこんなpostをした。

文フリがコミケットみたいになるのはシーンの拡大としては良いことのような気もするけど、コミュニティにはいるのが苦手な私としては蒲田時代のほうが気楽にやれたなというのもあったり、なんというか、極端に捻くれたやつはどこにいべきかみたいなことを

https://x.com/832zq/status/1723205061709623772?s=20

これは、小澤さんのBlogを受けて書いたものである。

kaikyosha.net

小澤さんは、参加者(購入者)というよりはむしろ制作者(編集者)であったり場をオーガナイズする立場であったりというような視点で書いたものかと思っているが、私は参加者──文芸フリークとして言っているので、必ずしも認識と結論において一致しているものではないと思う。

蒲田で文フリが開かれていたときに何かを売りに行った覚えがあり、私がサークル申し込みをしたものではないのだが、比較的閑散としていたフロアと久しぶりに会った人々、売る気があるのかないのか分からない文芸サークル、そんな少しひなびた場所だった。それは、私にとって居心地がよく、多種多様で群れきれていない感覚だったのだ。

傍観者として最近の文フリに思うのは、コミュニケーションのための場としての強度があがっている、コミュニティのつきあいとしての側面が色濃くなってきているということである。それは、一般的にはいいものであり、シーンが盛り上がるための必要なことでもあり、避けるべき風潮とは決して言えない。やはり、人と人、サークルとサークルの出会いや融和によって生まれ得るあらたな文芸(文学・ほか表現一般)はありうるし、あらたな文芸(ほか表現一般)を享受できる可能性だって広がるのだから私にとっても悪い話ではない。

他方で、コミュニケーションがないと、コミュニティがないと参加できない場になることには非常に残念な気持ちが残る。私の知っている文フリの「素っ気なさ」には、表現をしないとどうにかやっていけない心情を持った人間たちの強さがあったように思い、「仲間たちと過ごすこと」は非常に副次的なことだったように思う。あるいは、それがなくてもいい場だった。今の文フリの全てとは言わないが、目的や手段において共感できる仲間や、特定のテーマについて話し合える仲間同士でいることの結晶として作品があるような気がしており、それは私にとっては疎外感のあるものなのだ。

表現したいこと、伝えたいことが先にあるわけで、それをやってからでないと仲間なんかできないじゃん、という仲間づくりの下手な人間の思いである。仲間づくりの下手な人間が文芸などで表現する際、ひとりでいても気まずくない場だったからよかったのだが、今となってはどうだろう。多分、参加したら、あいつもこいつも仲間がいるんだから表現なんかこだわるなよ、と嫌な顔になるだろう。

全体にとっては今の文フリの盛り上がりは基本的にはいいことなのだと認識していて、それは嘘ではない。私にとってはその盛り上がりは大していいことでもないが、仲間がいなくても大丈夫な小規模なイベント(小澤さんのいうところの「都内近郊でのちいさな即売会 (いわゆるオンリーイベント) 」のようなもの)に参加できればまた見方は変わるかもしれない。何も作っていない人間が、今度なんかやるぞ、と言い訳して生きていく、その「言い訳」のよすがくらいあってくれと念じているのだ。他力に頼って。