sixtyseventh.diary

とりとめはない

Chapter 01 功利主義(『法哲学』有斐閣)

功利主義には高校時代の嫌な思い出があり、この章は大変勉強になった。

p.26 - 事例3 原爆 に関して

仮に、戦争が早期に終結することが人間にとって幸福であると定めたとき(条件Aとする)、人間にとって、特に、広島と長崎の原爆で亡くなった30万人よりも多くのアメリカ国民にとって幸福でない結果がもたらされるのは、この条件Aが満たされない=戦争が早期に終結されない時といえる。この条件Aが成り立つのは、功利主義における総和主義によって、(手段はさしおいて)戦争が早期に終結することがよりよい状態だと信じられる場合となる。第二次世界大戦下において、日本国民よりもアメリカ国民のほうが数が多いため、総和主義の観点から見ると、戦争が早期に終結する状態をもたらす原爆投下が「よりよい選択肢」である、という主張はもっともらしい。

他方で、テキストでも述べられているように、総和主義がとる効用は、一体誰の効用かという論点にたえられない。原爆投下で亡くなった30万人の効用において負の値をとらずに「ゼロ」とする、あるいは、そもそも考慮におかない場合──つまり、アメリカ国民における効用のみを検討する場合にのみ、条件Aはよりよいと言える。誰にとって「正しい選択だった」かというと、第二次世界大戦下のアメリカ国民にとって正しい選択に過ぎず、その「正しさ」は人類普遍のものとして適用されるものとは言い切れない。この点は、厚生主義の問題点にもちかしく、仮に原爆投下によって亡くなった人の効用の負の値を検討したとして、亡くならずに後遺症に悩まされた人の非厚生情報が考慮されづらいことにも現れる。アメリカ国民の正の厚生情報が反映されたとて、原爆投下による被害の負の厚生情報は考慮されず、戦時下および非戦時下の適応的選好形成についても考慮されないままなのである。

テキストで説かれている個人のかけがえのなさを、総和主義あるいは厚生主義は克服できない。原爆投下により亡くなった30万人、あるいは後遺症で苦しんださらに多くの人々の幸福を考慮せず、総和主義によって正当化することは理にかなってないのである。また、行為者として原爆投下に関わった人々の相関性に関しても考慮していない点にも着目する。功利主義の三要素の残りの一つ、帰結主義について、全知を前提とする人間が原爆投下に関するミッション──開発から、実際の投下まで──に存在し得ないことも批判し得る。日本に原爆を投下した場合、どのような結果がもたらされるのかということを将来にわたったすべての観点で理解して選択した者が存在し得ないことと同じである。原爆投下時点においての想定した帰結と、数十年後の現在から振り返った帰結について、これは完全に一致していない。つまり、原爆投下が帰結主義に基づいた「よりよい選択」だったとは結論つけられないのである。

以上の観点より、広島と長崎への原爆投下について、「戦争の惨禍を生き延びる人の数を最大化する選択であり、正しい選択だった」と結論づけることはできない。