sixtyseventh.diary

とりとめはない

出る杭を気にするなと言いたい(子育てについて)

私は結局のところ、6時間程度経っても腹が立っている。

子どもの長所はとにかく勉強・学習に非常に積極的であるということだ。これは様々な言語で肯定された。それはそうだ。私がやれという前に、彼女には知的好奇心があり、それに則った探求を行っていたり、あるいは今後の方向性にチューニングした助言をしたりしているわけで、その成功を叙述されてもさして意外性はない。が、私にも一片の社会性はあるので、謙遜ともなんともいえない相槌を打った。

短所については、ほとんど私の短所と一緒だ。曰く、弁が立つ。口先で言い負かしてしまう。頑固である。言葉の数が多い。周りより精神年齢が高い部分もある。これは私と同じことだ。ゆえに、口先で言い負かしてしまうようなことはせず、慮って過ごせるべきであり、譲ったりすべきであるということだ。これは、別に、間違った要請ではない。前の個人面談では時折強硬手段──手を出すとか、そういうことに出ると聞いたが、最近は強硬手段には出ないらしい。

じゃあいいじゃん。

と、言いたいところだが、通り一遍の親的な挙動を理解はしているので「ははぁ、」と理解したような顔で言い、得心したようなふりをする。

のが嫌なんだよ人生はよお。

そりゃ、学級運営を乱したいとは思っていない。なので、ある程度協力していきたいが、それは結局のところ小学生でできることなんて「余計なこと、人によく思われないかもしれないことは言わない、しない」という指針にしかならない。それで満足できる人生を歩む子どもを生むために私は生きてる訳では無い。じゃあどうすればいいのか? 小集団の「空気」をナチュラルに読める人間になるしかないのだが、それはナチュラル(あるいは、ネイティブ、が妥当な表現かもしれないが)にできる人間ばかりではない。私はできないタイプの生活をしているので、これを強いられるのはかなりつらい。もう、「何もいわない・しないほうがましじゃん」となる。明示化されたルールも、一般化された規範もそこには存在しないからだ。

それで、でも、そんなことを言うのは一般化された規範には反している。小学校教員はただでさえ辛い労働環境にあり、すべての家庭の言うように、すべての児童に(望まれた形で)寄り添うことなどほとんど出来たものではない。し、それを少なくとも、家庭が期待すべきことではない。他方で、私の子供はかけがえのない私の子供であり、私の家族であり、私が一定程度寄り添うべき人間である。つまり、ここには均衡という圧力が生じる。これは私、あるいは、児童の保護者だけが調整せねばならないものではなく、小学校教員も調整を頑張っているものだと私は慮る。そこまで、信頼していないわけではない。人間には教員免許状でできることとできないこと(時間的・環境的制約然り、能力的制約然り)があり、私は完璧な人間が小学校教員であるべきとまでは到底望まない。

ただ、一つ文句をつけるとしたら──うちの子供以外にとっても意味がありそうな文句をつけるとしたら、口がたつ児童なんて望まなくてもどうしても発生してしまうものであり、その力を阻害要因としてみるより、口がたつ人間に対して、ある意味では相手にしない能力をつけることも選択肢に入れていいのではないか、ということである。そりゃあうちの子は賢い。言い負かす能力もある。でも、それは、うちの子供に限った話ではなく、数を集めりゃある程度いる話ではないのだろうか。そこで、口を閉ざせ(とは確かに言っていないが、適切なことを言えというのはある種の人間には口を噤めというに等しい)という指導をするよりは、なんだか言い負かされた気になったとしても気にするなと。あるいは、「あなたの言うことはよくわからないが、納得しないし私はこうしたい」と言えるようになったほうがよほど役立つのではないか。私は人生で時折あった、「あのときあなたはこう言ってたけど、こうしたかった」と後から文句をつけられることが。

いや、その時言えし。

そんなわけで、<いま、ここ>の立場表明を尊んだほうがいいんじゃないの、と思う。それがどんなに稚拙なやり方だろうと(児童だし)、熱量には負けるかもしれないじゃないですか。弁論有利な人間を潰すなよ、ねえ。と怒っているのである。

ていうか、空気読まないほうが(2023年の)女は出世できるし。クソ、やっぱりいい保護者ぶるのやめときゃよかったなぁ。と、ぷんすかしているが、娘は気にせず座禅を組んで、感覚を研ぎ澄ませていた。