sixtyseventh.diary

とりとめはない

2023-12-07

もう寝たいのでうまくは書かないし尻切れトンボになるかもしれない。

私は数年前にそう考えるのをやめたが、それまで、自分の親を毒親と思うことにしていた。そうすると、幾分気が楽になるし(自分のせいではないのだから)、重要な親密圏の人間を一旦棚上げしてしまうこと自体、そもそも楽なことだった。穏健な失踪を、家族に対して行った。

そう考えるのをやめた理由は特になく、そう考え続ける動機も薄れてきてしまっていたからだと思う。私は私の新しくもうけた家族に対して愛情を注ぐので忙しかったし、私が親を恨み続けることで、子に恨まれることを誘引するのではないか、と怯えていた面もある。

私は一度母を捨てるような真似をした。今では、決してよくなかったことだと思う。そして、ひょんなことから再会し、今では良好な関係性をもっている。

こうなった理由は酉の市の帰りの浅草の道で会ったからでしかなく、そのときがあまりに「ひょん」だったので、もう、親を警戒する子の顔をしてられなかったのである。幼い自分の子を連れていた、子は小さかった、親は記憶より小さく見えた(実際私よりずっと背が低い)。

仲直りの儀式はない。お互いなし崩し的に連絡を取り直すようになった。私も警戒はしたかもしれないけれど、警戒し続ける生活の余白はなかった。私にはなかった、一定程度の親族を子供に与えたいという欲望もあった。

とにかく、何をしたかというと、今日は、母に謝った。私のしたことは、今振り返って全くの誤りであった、と言った。言い分は私なりにあるのだが、だからといって、34歳の私にとってはもはやそれは「正しい言い分」ではなかった。何であれ、彼女にとってもはやひとりの家族である私が、彼女を裏切る態度をとるべきではなかった。当然そのときにそのような判断をすべきだったかというと、少し違うニュアンスが残る。だからこそ、あれから10年以上経った私が謝るべきだと思った。それは、10年以上経ってもまだ生きている私たちの関係性に対しての私なりの誠実さであった。私は心底思った、ひとり子供に立ち向かった、子供を養護した、子供に十分な教育を与えようと闘った、その勇敢さを私以外誰が讃えられるだろうかと。そして、その勇敢さを見逃していたことを私以外誰が謝罪できるだろうかと。もう、見逃していたと言い訳はできない。知らなかったと言えない。彼女の孤独な闘いを知ることができるのは私だけであった。そして、それを私は受け止めた上で、彼女に謝るべきだと思った。当時の私の振る舞いを詫びることは、今の私の責務だと思った。

もちろん、個別の起きたことに対して、親としてもっといいやりようも、すべきでなかったこともあったかと思う。しかし、誰が完全な親子関係を築けるだろう? 私は、親の不完全さを克服したのだと思う。そして、その不完全さは親の懈怠ではなかった。私は、私のしてほしいことを伝えられていなかった。不完全さに対し、何も行為しないうえで、不完全であると文句をつけていた。ただ、私は子供だった。何もわかっていなかった。今も、何をわかっているかというと心もとないが、少なくとも当時の親の孤独さに対し、一定想像し、共感することができるようになった。

謝ることには勇気がいるが、赦されたかった。そして、私はやっと、子供で居続けることをやめた。こうして会えてよかったと思う。また、親と出会えた。私は、それを、人生の収穫と思いたい。