sixtyseventh.diary

とりとめはない

2002-02-01 (回顧)中学受験当日の思い出

小田急本厚木駅から、JR根岸線石川町までは乗り換え2回の1時間7分。本厚木駅までは神奈中バスで10分から15分。バス停までは家から大体10分弱。石川町駅からフェリス女学院中学校までは徒歩10分程度。つまり、家からスマートにたどり着けたとて、家からその志望校までは1時間40分程度を見込まねばならず、8時20分集合に余裕を持って間に合うには、6時30分くらいに家を出ないとならない。もとより、朝寝坊を時折起こす親子だったため、念には念を入れて、関内のホテルに前日から宿泊していた。ホテルといっても今考えるとビジネスホテルに相当するものであり、何か豪華なことがあったか、など覚えていない。前日に何を食べたか? 朝はカツサンドを買ってもらったような気がするけれど、昼もカツサンドだったような気がするし、流石に22年前の詳細までは思い出せないのだ。

前日について、つまり、2002年1月31日に小学校に登校したかどうかもあまり覚えていないが、前々から親の言っていた「大切な試合の前日はむしろ一切練習しないことで、アドレナリン(多分)を最大限に高めていた。故に、入試の前日は一切勉強を禁ずる」との備えを実行したのは確かである。試験の終了をもって、3年間の中学受験が終了することも非常に解放的だったし、3年間とは言わないが、恐らく小6の1年間は毎日、勉強しないとならないプレッシャーに追われていたので、2002年の1月31日になれば勉強をしないでよいのだ……! ということに果てしない魅力を感じていた。ただ、どこかしらの中学校の進学が決定しない限りはゲーム解禁とならなかったので、2月1日に早速ゲームはしなかった。

前日譚が続いて恐縮だが、2002年1月30日には地元の市立中学の見学というイベントがあり、東名高速道路のわきに広がる田んぼに囲まれた市立中学を律儀に見に行った。地元にいる中学生はダサい指定カバンをキシキシ言わせながらスニーカーで通学しており、中学校に革靴で通うことに憧れていた私には本当に信じがたい姿であった。市立中学をぞろぞろ歩いて見学しながら、細かな話はもう一切覚えていないが(その中学校に進学することはさすがにないと信じていた)、音楽室にあったボロいドラムセットにほんとうに悲しい気持ちになった。私は中学校でバンドをやりたかったのだ。結局フェリスのドラムセットというのもいろんな因縁があることは別の話。

さて、当日、朝食も覚えていない程度に何も覚えていない。とにかく、いま私がフェリスのOGであるということは、試験に寝坊せずに行ったことだけは確かなのである。受験番号は218番。確か、2002年4月から利用できる新校舎は試験会場でなく、仮校舎だったような気がするが、これも定かではない。試験を受けた教室は、その後6年間過ごした1号館・旧2号館(現存しない)・12号館のいずれの教室にも一致していない、と思う。特に、手洗いが違ったような気がする。では果たして仮校舎は2月から4月のうちに消滅したのか? J1のころの記憶も定かではない……。とにかく、その後の中高生活において「あぁここで試験を受けたなぁ」という気持ちにはならず、鉛筆門(現存しない)から入ったあとにも続く石段と旧下足室・体育館(現存しない)だけが、時折試験のことを思い出させるのである。

で、試験の内容のこともほとんど覚えていない。試験を受ける前かに、親に手紙をもらい、席についてから開くと、応援のメッセージがあってちょっと泣きそうになった。第一志望の学校の試験の席で、本当に孤独な気持ちになっていたのかもしれない。試験終了後に廊下に出れば、塾で出来た友人・知人に会うこともあったが、結局ひとりで立ち向かうしかない途方もなさというのは、2月1日の試験前にようやくわかったのだ。そして、ひとりで立ち向かうしかない路程において、家族や先生が支えてくれていたんだな……とさすがにめちゃくちゃピュアに感動したのだ。でも試験が始まったらそんなこと結構どうでもよくなって、問題を解くことに懸命になった。

私たちの年は異常で、フェリスの国語といえば200字記述という骨子がくずれたのだ。文章読解大問1に200字記述が含まれ、大問2は漢字書き取りや読みの問題という骨子で相当長い間やっていたものが、2002年度入試では、文章読解大問2つにそれぞれ150字弱程度の記述、大問3が漢字の書き取りや読みの問題という骨子になっていた。これは、国語の問題と解答用紙が配られたときに気づいた。裏返しの解答用紙から透けて見えるのは、200字記述のそれではなく、なんかそれより小さい欄が2つ。「ふーん、やるじゃん」とめっちゃ面白くなったのを覚えている。私は、基本的にみんなが対策していない範囲で勝つタイプだったので、フェリスの200字記述なしという状況では結構追い風なのだった。

高度化した昨今の最難関クラス中学受験ではもはや200字程度の記述はさほど特別に対策するものではないかもしれないが、当時は少なくとも、女子がフェリスを受けるなら200字記述は絶対に対策しないとならないものだったのだ。むしろ他に特別に対策するものある? というくらい(社会と理科も比較的記述解答をさせるのが好きな学校だが)。それがなくなるのは随分ショッキングだったはずだ。ちなみに、当時の小6は受験勉強をしていても200字記述には一定時間を割くような感じだった。女子御三家志望者は身の回りにいなかったから分からないが、少なくとも桜蔭中学は国語にそこまで時間をかけている場合ではないはずなので、こういうなんか、目立つ尾羽みたいなのはなかったと思う。そういえば私のころは桜蔭は国社・算理でそれぞれ55分を2セットみたいな出題形式だったのに、今は全く違うらしい! びっくりだ。

話が横にそれた。で、国語が終わって、めっちゃおもろ〜と思いながらトイレに行くと、知り合いに会ったので、「200字記述なかったねwww」みたいなヘラヘラを披露。算数の試験は、分からなすぎてめちゃくちゃ時間が余ってしまったので、解答用紙の途中式欄だかに、マジで馬鹿みたいな途中式をたくさん書いて埋めておいた。それでも答えが全然分からなくて、あーあ、と思った。が、多分深刻に捉えないようにしたのか、理科も社会もさほど暗い気持ちで受験していない。理科はこまごめピペットの持ち方を描いた覚えがある。

正しい持ち方

昼ごはんは多分親と集合してどこかの教室で食べて(これは12号館だったかもしれない?)、どんな会話をしたかは覚えていない。200字記述がなかったよ! とヘラヘラ話していたかもしれない。

今年度はない(あるいはもう廃止された)が、集団面接もあった。5名くらいの受験生と、3名くらいの教職員で、他愛もないことを話す。私が思うに、この集団面接はさほど比重がおかれておらず、いざ入学してみると、「面接に比重が置かれていたなら、この同期は……」という人もいた。いろんな同級生がいたのだ。私はプレーリードッグを飼っている話をして、「砂掘らせてあげなくて大丈夫なの?」と教職員に聞かれ、「あー……それは確かにそうですね、掘らせたほうがいいんでしょうけど掘らせてないですね」というようななんにもならない返事をしたりした。筆記試験より、この受け答えの冴えなさが合格発表まで気になっていた気がする。

試験が終わってから家に帰り(これも電車で帰ったのか自家用車で帰ったのかさっぱり覚えていない)、家に帰ってから何をしたかも覚えていないが、夕方だか夜だかに日能研に行き、算数の先生に「これはやばいよ……?!」とやばい顔で言われたので、あ、やっぱりやばいか〜と思いつつ「まぁ明日鷗友がんばります」と返し、日能研から出たあとに会った親には算数の惨状を一切伝えず、2月1日を終えた。

この一日で、ショックを受けたとか、いい気分だったとか、そういう感情の波は一切覚えていなくて(感じたかもしれないが)、とにかく200字記述がなくなったことが面白くてしょうがなかった。

2月2日は鷗友学園女子中学を受験し、その日の22時くらいにはインターネットだかFAXだかで合格が分かったので早速プレステ2を起動してファイナルファンタジーをやった。2月3日にフェリスの合格発表があり、あんまり会いたくなかったのに現地で友人知人4人くらいに会ってしまい、流れでみんなで合格発表の掲示板を見たのだが、自分しか合格してなくて、果てしなく喜びにくかった。親は泣いて喜んでいたが、人生最大に気まずい時間で、「あっ、あ、あ、じゃ、また……」と母を引き連れて入学書類を配布している方向へ逃げたのだった。今はいちいち現地で合格発表を見ないだろうから、それは本当に羨ましいです。大学は合格発表確認してからいちいち三田の掲示板を見たような気がします。私立専願は暇。

そうそう、2001年の2月1日は金曜日で、それに気づいたとき(小4くらい)「決戦は金曜日じゃん」とドリカムを敢えて聞いたりしたのだった。地下鉄も乗ってないのにね。