sixtyseventh.diary

とりとめはない

2024-02-17

ピアスが全部とれてアキバのドンキに買いに行く夢を見た。ピアスが全部取れた理由をうまく説明できないが、左耳をいじっていたら、インダストリアルもインナーコンクももろもろとれて、すごく焦ったのだ。軟骨のピアス穴はふさがりやすい。特にインダストリアルは今18Gのピアスでかなり細いので、予断を許さない。慌てて駆け込んだアキバのドンキは、現実と大きくは違わなかった。外国人がかなり多いのも現実と同じだった。

H3ロケットの打ち上げ中継を家族でみる。発射時の噴煙の大きさに、人類はこんなにすごいエンジンを開発できるのか、と感動する。まだ日本は持つかもしれない、と住んでいる国に対して久しぶり期待を持った。まあそこまでロケットに入れ込んでいたわけではないが。今朝夫に言われて知ったくらいだし。それでも、第2エンジンが無事に作動し、計画軌道に載っているのを見て、素朴に良かったなぁと思う。打ち上げ失敗が1年前のことと聞いて、1年で試作機を改修して文字通りローンチできるのは本当にすごいことだ。

小学生と宿に向かう道すがら、秋葉原駅総武線ホームにやってきた電車が市ヶ谷に停まるかをご婦人に聞かれる。列に並ぶなか、後ろにも人がいるのに、なぜ私が選ばれるのだろう。よく何かを尋ねられる理由は、いまいち判然としないが、面倒ながらも悪い気持ちはしない。急いでいるときと自転車に乗っているときは流石に面倒な気持ちが非常に強いが。自転車に乗っていても、道を聞かれるのだ……地域あるあるなのか、道聞かれあるあるなのか、これもはっきりしない。

茶店で、まぶたがくっつくくらい眠い。平安時代に関する本を読む。権力争いとそれに巻き込まれるものとしてジェンダーギャップが示唆される箇所もある。でも単にフェミニズムに収束できるものでもなかろう。男も常に制度にまきこまれている。制度とは、規範とは、何なのか。それは実存たるか。話を戻せば、日本におけるフェミニズムが西洋のそれを直訳したまま汎化しようとしていることが、そもそも十分な態度ではないのではないか。日本のジェンダーセクシュアリティも、あるいは特権的な言い方を避ければ、東アジアの島国におけるジェンダーセクシュアリティも、西洋の人文社会学的知をそのまま輸入して敷衍できるコンテクストを持っているわけではないだろう。当然、性別によって不利な扱いをうけることは現代で望まれることではない、ということに賛同するが、性別によってうける不利な扱いと、その歴史的経験は、必ずしも西洋のそれと同一化し得ない。この国ではRenaissance以前に女性のものとされる文学が興隆し、それが1,000年以上に渡って受け継がれ残されている。その事実をもってしても、女性の抑圧のあり方が西洋と異なるのではないかということについて、十分に理解したうえで、運動や実践に繋げないと虎皮羊質の提唱にすぎないものになるだろう、としみじみ思うのだ。

昼食後、塾の復習。理社。テキストがよく、丁寧に書かれていて好感を持つ。知識としては、食べ物の旬から、豊作貧乏、海流等。理科は生物分野、植物の可食部などを扱っている。中学受験では理社は暗記科目なので終盤つめこむものとして捉えられているフシもあるようだが、私は、時間に余裕があるうちに丁寧に扱うことによって、ただただ覚える以外の意義というものを経験していくことが人生にとって重要だと思う。今、暖流が何だとか、促成栽培が何だとか覚え始める必要はなく、その機序について、なんとなく、フウンというファーストコンタクトを持つことがいいと信じている。試験におけるテクニックや重要性を度外視すれば、そもそも、理科や社会に関心を持たない子どもがいるでしょうか。私は、小学生の時に塾からもらった地図帳や理科資料集を眺めるのが大好きだったし、高校生になってもクロム溶液のきれいな色は素敵だなと思っていた。

キャベツを処分するなんてかわいそう、という小学生に、なぜそうするかを教えた図

昼寝。明石家さんま大竹しのぶが夫婦役としてドラマに出演、という内容。ドラマは複数のカップルが人間模様をこんがらからせる(?)もの。大竹しのぶは「いまでもこの人(明石家さんま)は、私が他の人と恋愛する役をすると嫉妬するっていうから」と言っていた。あまりに唐突な題材の夢。

自分が成長できる会社であるというような内容の企業CMを見かける。キャリアパスにおいて、自己の利益を検討すること。己の成長は、直接的にはミクロの経済的利益の期待を。間接的にはマクロの成長を呼び込むかもしれない。しかしそれは必ずしも唯一の正解ではない。仕事を通して成長する必要はない。結局のところ、仕事は人生の過半を占めうるが、人生はそのためだけに駆動するとは限らない、というようなことを考えていた。楽しめることは大切だが、根源的な自己の欲求を満たすべきものではないのだ、と最近考えている。根源的な自己の欲求が十分な金になる、自然に現世利益になる、というのは期待できることじゃない。天才であれそうでないものであれ。村上隆でさえ、マーケットの欲望を踏まえた表現をしているというのは、救いでもあり絶望でもあるなぁと思った。岡本太郎はどうだったんだろう。それでも、根源的な自己の欲求は無益なものではない──それを実現することで、他ならぬ、今生きている自分のベネフィットは思いもしないほど満たされるのだから。