sixtyseventh.diary

とりとめはない

2024-03-06(東京国立博物館特別展「本阿弥光悦の大宇宙」)

雨なので自転車使えず。傘をさす坊やはかわいい。リモートワークと決めた日の朝は気楽だ。しかし気は思ったほど緩まないもんだなぁ、と布団をたたむ。

謎の振込通知にビビったが、正当なものだったし、ちょうど手持ちのお金がなくなってきてて別口座から移すか考えてたので助かる。何買おうとしてたっけ? 米国株価も上がってるし、投信に突っ込んでもなぁ。

平成館は上野公園の奥の奥

本阿弥光悦。書の豊かさを知る。構図だけでなく、筆跡(早く書いた)や、文字のつらなる様に魅力を感じた。

第一章の展示で立正安国論の書写に、立正安国論やんけ! と驚く。第三章の展示「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」に、小野小町という名前をみとめたり、百人一首の書のうち、人もをし 人も恨めし あぢきなく、の歌が書かれていることが分かったり、にわかに平安の院政時代に関心を持っていたことが鑑賞を良いものにした。光悦は平安古書を蒐集していたようだから、色々と作品もあるんだろう。今は、こうして規格化されたフォントで私達はやり取りしているが、書簡などがなくなるのは、つまり、安易に内容を読めるし、このデータやスクリーンショットに何の美もないであろうことはまた一つの術が失われているのだと考えた。

第二章にある日本における最初期の出版物。雲母摺りの美しさはさることながら、嵯峨本から脈々と続く出版印刷の歴史に愛おしさを感じる。ところで俵屋宗達は江戸後半くらいだと思っていたが、全然違った。人名はまだらに覚えているのに、いつ頃の人か、これは大学受験のときからそうだが、まともに覚えていないらしい。俵屋宗達と光悦、いずれも江戸初期に活躍しているのだから驚く。刹那的なものが全般的に受けていたという何かについていたディスクリプションも納得。光悦が刹那的というわけではなくて。

第二章と第三章の間にあった8Kが意外とよかった。映像に関心がないので無視しようかと通りがかりに思ったけれど立ち止まって正解。こんなにギャンギャンにうつるのか。映像自体やかましくもなく、なかなかよい。

本阿弥光悦作品を舐めるようにうつす(撮影可エリア)

畢竟、見ることは光、照明のようなものと、ちっとも切り離せなく、光る画面なら輝度、生活していれば……なんだ? 明るさ? 露出? と一心同体として在るのだな。当然なのだけれど。視神経の衰えに、妙に恐怖を感じながら、それにしても8Kのよりまくり映像はすごい、実物を見たからこそすごい、と思うのだ。肉眼では分からないかもしれない、刀剣の刃の欠けなど。

「舟橋蒔絵硯箱」ぬいぐるみと、はさみみ

ところで硯箱はwriting boxで分かるのか?ものによっては解説文は英語の方がすっきりと書いてあり理解しやすいので、適度に英語をやっておいたほうがやはりよいな。日本語だと専門的な熟語に集約されてしまって、語彙力との果てしない戦いが始まるので。

目論見通り、今日はちょっとのんびりめに過ごせてよかった。いやゴロゴロする時間は全然取れなかったけど、いいんじゃないでしょうか。仕事も自分のペースが出来あがりそうな感覚だし。

exp-d.com

記事を読んですっかりムーンスターも、そのブランド810sもいいね! という気持ちになったので靴を一足購入した。服もいくつか買った。そう、予期せぬ収入はファッションへ。あんまりテンション上がらない服を処分するかぁ。もう、売られているものが山程ある上に、それらを買う手段も豊富になりすぎていて、何も考えず買うと損した気分になる。自分の好きなブランドやラインというもの、商品画像以外にある背景みたいなものに、せっかくならお金を出したい。まぁ、そこまで考えて買っていないことがほとんどなのも事実だけれど、人付き合いのように、ものとの付き合いも、気が向くままに大切にしたいのだ。

牛乳を飲みすぎたのもあるだろうし、昼間に担々麺を食べたのもあるだろうし、尻を痛めた。明日は出社するので、きりっと。