sixtyseventh.diary

とりとめはない

2024-03-31

年度末だが何かが大幅に変わるでもなく、まあ子供らの学年は変わるね、というくらいである。それにともなう大幅な何かはさほどなく……ドサクサに紛れて2年生は6時間授業が始まったりするのだが、これは私が直接担任に尋ねたから知っただけで、恐らく公式アナウンスはない。唐突に6時間授業になって大丈夫なもんなんだろうか。うちは小学生のピアノのレッスン曜日を変えないとならず、ちょっと面倒だった。いきなり知ったら小学校に腹が立ったかもしれない。

今朝は朝ご飯を食べて本を読んで二度寝して起きてから今度は坊やを公園に連れて行って、町会のイベント説明会に行って、帰ったら小学生の勉強を見て、春期講習に送り出し、うたた寝してお迎えに行って帰って本を読んで、ご飯を食べて少女漫画大河を見て、ものの描き方を小学生に教えて、夜。

ものの描き方というのは意外と教わらないもので、とりあえず、画面いっぱいに描くこと、まず大枠を描くこと(そのものがなぜそのものなのか、どう描くとそれだと自分が思うのかにフォーカスすること)、黒い絵の具を使わない方が基本的にはいい絵になることを教えた。多分4月中に写生大会があるのだ。部品の中心線から肉付けしてものを描く方法や、単純な図形の組み合わせとして描く方法を、コンパクトに伝えてみた。絵を描くときの視力というのは、意識的にかなり鍛えることができるので、鍛えてみてほしいと思う。そうすることで、もっと、表現は飛躍するのだ。私はまだまだ筋肉が足りず、こんなことを描けたらいいのに、が夢想止まりになる。これは結構悔しい。表現は一部の天賦によるものだけではなく、己の中にあるものを表象とすることで成せるのだ、と、分かったら、そんなに怖くなくなると思うし、それが故に分かる崇高さのようなものを味わえると、よい生活になると信じている。

そもそも、ある種の意志というのは生まれたままの状態で芽生えるのではない、のではないかと疑っている。自我と意志を理性的に磨き上げたもの、「どうありたい」とか「どうなりたい」とか言ったものは、必ずしもあるがままに生きていて見つかるものではないのではないか。そういった意志を幼いときに見つけ、熱心に、ストイックにやり続けるといわゆる天才と呼ばれるのだろうが、その意志を見つけることは容易いことではないのだろう。

ショーペンハウアーの言うような意志は私の今言っている意志でなく、フロイトの腑分けしたものに近いと、今は考えている。私の言っている意志は、生存のための根源的な要望とは異なる、生きるということの(生き続けるということの)内奥に存在しうるもので、それは基本的には自己以外に理解しきれないものだろう。ただ、その意志は自己そのものでもない、なぜなら、そういった意志が必ずしも人(または、生き物)にあるとも限らないからだ。あることもあれば、死ぬまで認識されずにある(つまり、無い)こともあるだろう。まるで何の意志もないように、金や名声や性欲や群れで生き続けることもよく起こることなのだと考えている。そして、それは善や悪といった観点で裁かれるものでなく、意志のないものがそのまま意志を認識するようになるには、「天啓」だの「運命」だのが齎されたりするのだろう。

何を言いたいかというと、子供をありのままに、したいことをさせる、というのは大凡欺瞞にすぎないということ。したいことを真剣にする子供もいるだろうが、それは、環境の、子供の認識世界の働きかけが必要なことが多く、監護者が出来ることといえば、認識世界の解釈や、そうした意志があれば(そして当面爆弾が落ちてきたりしないような生活であれば)その意志はかなうということを根気強く伝えていくことと、そのためにあなたは意志を見つけ育む必要性があると粘り強く伝えることだ。

「求めよ、さらば与えられん」は、キリスト教の神を信じることとしてマタイから伝えられているが、神を抜きにしても、求めること、求める意志があれば、与えられるのだと、どこかの世界を照らすような、そんな風に私は正当で汎用な聖句だとしみじみ思う。求めることを怠ってはならない、真剣に只管に求めることで、ひらかれる世界が必ずある。ひらかれないことを嘆かず、求めることに味わいを思い続けたい。求め続けることに、生きる意味もあるような気がしている。