sixtyseventh.diary

とりとめはない

創作:「弥栄」

中川は深夜、左衛門橋通りを南へ走っていた。黒のスニーカーが歩道を交互に踏みしめる。昼間に路面を濡らした雨粒はほとんどが上野の空に帰り、街路樹だけが暖房の効きすぎたカフェ店員のように湿っていた。

月明かりも星の輝きもどこかへ消えた上野の夜中、彼の左手にはひとつだけ握られているものがあった。中川はそれをぞんざいにも丁重にも扱わず、息を切らして走っていた。タクシーも息を潜めた時空、呼吸の音だけが二十二日の真夜中を揺らしている。

ハア、ハア、ハア。ガシャン。

浅草通りまであと数十メートルのところで、中川は自転車を倒した。プラタナスから体を離し、歩道に横たわるそれを持ち上げようとする。四つの視線が彼の胴体を舐める。恐る恐る、視線のもとを見る中川。男女は駐車場のブロックに腰掛け、缶チューハイを片手に持っていた。男は中川へ向けた視線を女の左耳に戻し、女は中川の左手に握られたそれに視線を集中させる。薄暗闇の中、白く巻かれた――

そんな女の視線も知らず、中川は自転車をまたプラタナスにかけてやる。手放した青く、錆の多い自転車は、倒れたことを忘れたように真夜中の時空に佇む。男は女の左耳を噛む、女は薄暗闇の中、白く巻かれた手旗をまだ、眺めている。

弥栄、と中川は呟いてまた左衛門橋通りを走り始める。女はあの手旗が日本国旗だと知っている、男は女の顔を舐める。缶チューハイの呼気が女の鼻孔に沈む。沈んだアルコールと煙草の匂いに呼応し、女は男の唇を噛んでやる。男の乾いた唇の裂け目から、血が滲む。

浅草通りを渡ってしまった後の中川のことは、誰も知らない。