sixtyseventh.diary

とりとめはない

2024-04-08

朝寝坊はしてないはずだが余裕なく出社。腹痛があったせいかもしれない。銀座線で角川ソフィア文庫の『小右記』を読み始める。

定例がなかなか早い時間開始で、その後すぐ写真撮影(する方)だったので午前中はヘトヘトだった。半袖Tシャツ(前職グッズ)にエアリズムズボンなのに途中汗が吹き出して、暑がりすぎるんだよな、汗かきというか……と凹んだ。撮影はまあなんとかなった。室内だとどうしても色温度がな〜。いじりすぎると青くなるしな〜。

打ち合わせやなんやあり、割と慌ただしい一日。帰りも『小右記』を読む。藤原実資っていいね、大河ドラマがなければ注目しなかったもしれないし、ロバート秋山が日記を書いているような気もしてしまうが。藤原実資は、平安時代のイメージを少し変えてくれるな。公卿は参内して仕事しろ、参内しないと評価下げるぞ、みたいな話が載ってるのを読んで、令和かよ〜ってなりました。結構分厚い文庫本だけれど、楽しい。

晩酌なし、鯖。うまい。ヘトヘトで眠たいので、今日はこれでおしまい。

2024-04-07

哲学、西洋哲学のわからんところは西洋の軛を超えられているかというとそうでもないのでは? というところにあり、その論証自体に文句をつける気にはあんまりならないが、そもそも、東洋やアフリカや南米や中東の人間も含まれうる論理なのかというと、自分にはよくわからない(当事者あるいは深い理解者による擁護があるのかわからない)ことだ。美的感覚に色彩がどれくらいを占めるかという話をとってみても、少なくとも東アジアでは墨で描いた絵が当時美とされ残されたわけで、濃淡はあれど色彩、豊かな色彩が芸術において必要と言い切れなかったのでは? とか、色弱者に美がないとも美に貧しいとも言えないのでは? とか、色々考えるのである。そのあたりはおいおい確認してもいいかもしれないね。

今週の少女漫画大河も面白かった。早く小右記を扱ってる本を読まねば〜。

2024-04-06

昨日あたりから気管支の調子が悪く、喘鳴が時折気になる。飲み薬を切らしてしまったのもあるかもしれない、来週中にかかりつけには行くが、痰が絡んでいる感じは辛く、やはり禁煙すべきでは。いや、すべきかどうかを医療的に言えばする以外の選択肢はないのだろうが、私の人生は医療的善悪で決めるものではないので……。

昨晩随分夜ふかしした割に朝起きたので家事を少し済ませ、早すぎたかなと布団に戻ると圧倒的な眠気に襲われたので心地よく二度寝。起きたら小学生はピアノに出かけていて、偉い。

田原町の郵便局まで歩く。ちょうどいい交通機関がないのもあって歩いたが、往復歩くとちょっとした運動気分になる。簡易書留で武蔵美通信の願書を出した。万が一入学許可出なかったら? とか、そもそも学修しきれるのか? とか色々あるのだが、着想からしばらく寝かせ、昨晩費用的にもスクーリング的にも、できないと言うほどの話ではなかろうと目処が立ったので出願したのだ。楽しみだけど、許可出なかったら……というのは怖いし、学位取れるかもわからん。学位はさほど重視してないが、とにかく学部レベルの論文を修めないと! と思っている。

昼寝、晩酌。もう、誰だか分からない人ばかりだが、オールスター感謝祭の赤坂五丁目ミニマラソンを見られてよかった。そのあと細川たかしが出てきて、一層よかった。細川たかし北酒場をありがたがるのは、人生が熟成してきたからか、単なる趣味か。演歌や歌謡は時代のものか年頃のものか、私の中ではまだ明確ではないが、時代のものかもしれないね。とりあえず、来週再来週の土日はゴロゴロしてるわけにもいかないので、今週末はゴロゴロしていよう。

2024-04-05

昨日、仕事がハードだった(設営込み人物撮影⇛資料仕上げ⇛商談訪問⇛オンライン打ち合わせ)ので、今朝もくたくたでちゃんと起きられなかった。その前の日もなかなかハードだったし、今週は非常に長い。体力的には今日は土曜日であってほしかった。

今日は在宅。社内打ち合わせをして、資料作成、飯食って、ロープレ(うまくいかない)、資料レビューを受け、社内打ち合わせ(地味に仕事が増える)、昨日やった写真撮影の準備マニュアルの作成、オンライン社外打ち合わせ、レビューを受けて資料修正。坊やのお迎えに行き、秋葉原で営業の本を買い、帰って読んで、子供らに夕飯、本を読み終わってからロープレ資料を直すつもりが事例集を作りたくなって作業をしてしまう。金曜ロードショーに子供らが見入ってしまって就寝が23時にずれこむ。夫が外出しているもんで、妙に気を抜いてしまった。そういうときもあるよね。

ここ一週間くらい、鼻の穴の中に傷?ができていて、かさぶたが気になる。早く治ってほしいんで出来たらステロイド軟膏でも塗りたくってしまいたいのだが、果たして大丈夫なのか分からず、イライラしたままである。

仕事で何をしたいか、というのはいまいちピンとこないのだけれど、どんな人と仕事をしたいか、であればもう少し答えが出そうだと思う。それは、人付き合いというより、環境的な意味合い。何をしたいかはやっぱり考えても衝動的な興味でしか答えられず、1週間後などに持ち出されると、あぁ今は別にいいや……とテンションの低いやつになってしまう。

スタートアップ村にいないでもない、という意味で前々職のことをスタートアップ村の僻地と認識していたが、まれに、何らかの繋がりが見つかったりする。そういう意味でやはり村ではあるのだが。今の職場もスタートアップ村っちゃスタートアップ村なんでしょうけれどね。ここは僻地感ないなぁ、ある種、いかにもスタートアップなんだろう。入ってみて失望するものがない部分について、本当に良かったと思っている。非常に些末なことを持ち上げるとしたら、PCを立ち上げれば打刻され、閉じればまた打刻されるのがとっても助かる。フルフレックスを享受している気持ち。この環境がスタンダードにならない限り、転職できる気がしない。 

先日見かけた、平成初期なエレベーター

2024-03-31

年度末だが何かが大幅に変わるでもなく、まあ子供らの学年は変わるね、というくらいである。それにともなう大幅な何かはさほどなく……ドサクサに紛れて2年生は6時間授業が始まったりするのだが、これは私が直接担任に尋ねたから知っただけで、恐らく公式アナウンスはない。唐突に6時間授業になって大丈夫なもんなんだろうか。うちは小学生のピアノのレッスン曜日を変えないとならず、ちょっと面倒だった。いきなり知ったら小学校に腹が立ったかもしれない。

今朝は朝ご飯を食べて本を読んで二度寝して起きてから今度は坊やを公園に連れて行って、町会のイベント説明会に行って、帰ったら小学生の勉強を見て、春期講習に送り出し、うたた寝してお迎えに行って帰って本を読んで、ご飯を食べて少女漫画大河を見て、ものの描き方を小学生に教えて、夜。

ものの描き方というのは意外と教わらないもので、とりあえず、画面いっぱいに描くこと、まず大枠を描くこと(そのものがなぜそのものなのか、どう描くとそれだと自分が思うのかにフォーカスすること)、黒い絵の具を使わない方が基本的にはいい絵になることを教えた。多分4月中に写生大会があるのだ。部品の中心線から肉付けしてものを描く方法や、単純な図形の組み合わせとして描く方法を、コンパクトに伝えてみた。絵を描くときの視力というのは、意識的にかなり鍛えることができるので、鍛えてみてほしいと思う。そうすることで、もっと、表現は飛躍するのだ。私はまだまだ筋肉が足りず、こんなことを描けたらいいのに、が夢想止まりになる。これは結構悔しい。表現は一部の天賦によるものだけではなく、己の中にあるものを表象とすることで成せるのだ、と、分かったら、そんなに怖くなくなると思うし、それが故に分かる崇高さのようなものを味わえると、よい生活になると信じている。

そもそも、ある種の意志というのは生まれたままの状態で芽生えるのではない、のではないかと疑っている。自我と意志を理性的に磨き上げたもの、「どうありたい」とか「どうなりたい」とか言ったものは、必ずしもあるがままに生きていて見つかるものではないのではないか。そういった意志を幼いときに見つけ、熱心に、ストイックにやり続けるといわゆる天才と呼ばれるのだろうが、その意志を見つけることは容易いことではないのだろう。

ショーペンハウアーの言うような意志は私の今言っている意志でなく、フロイトの腑分けしたものに近いと、今は考えている。私の言っている意志は、生存のための根源的な要望とは異なる、生きるということの(生き続けるということの)内奥に存在しうるもので、それは基本的には自己以外に理解しきれないものだろう。ただ、その意志は自己そのものでもない、なぜなら、そういった意志が必ずしも人(または、生き物)にあるとも限らないからだ。あることもあれば、死ぬまで認識されずにある(つまり、無い)こともあるだろう。まるで何の意志もないように、金や名声や性欲や群れで生き続けることもよく起こることなのだと考えている。そして、それは善や悪といった観点で裁かれるものでなく、意志のないものがそのまま意志を認識するようになるには、「天啓」だの「運命」だのが齎されたりするのだろう。

何を言いたいかというと、子供をありのままに、したいことをさせる、というのは大凡欺瞞にすぎないということ。したいことを真剣にする子供もいるだろうが、それは、環境の、子供の認識世界の働きかけが必要なことが多く、監護者が出来ることといえば、認識世界の解釈や、そうした意志があれば(そして当面爆弾が落ちてきたりしないような生活であれば)その意志はかなうということを根気強く伝えていくことと、そのためにあなたは意志を見つけ育む必要性があると粘り強く伝えることだ。

「求めよ、さらば与えられん」は、キリスト教の神を信じることとしてマタイから伝えられているが、神を抜きにしても、求めること、求める意志があれば、与えられるのだと、どこかの世界を照らすような、そんな風に私は正当で汎用な聖句だとしみじみ思う。求めることを怠ってはならない、真剣に只管に求めることで、ひらかれる世界が必ずある。ひらかれないことを嘆かず、求めることに味わいを思い続けたい。求め続けることに、生きる意味もあるような気がしている。